はすだ歴史探訪
上平野・高虫の石仏と見沼の伏越しをたずねて
- コース:上平野バス停~平源寺~八幡神社~宝蔵寺跡と石仏~氷川神社~歓喜寺跡~妙楽寺~備前提と御定杭(おさだめくい)~天照寺~伏越橋~井澤弥惣兵衛為永の菩提~平野バス停=蓮田駅
- 距離:7km
- 所要時間:3時間30分
- 地図:
今日は石仏のたくさんある上平野、高虫方面にごあんないします。高虫は駅から遠いので、往復ともバスを利用しましょう 蓮田駅の西口から平野経由中橋行きに乗ります。 上平野のバス停で下車します。初めに上平野の平源寺に行きたいのでバス停から少し戻り右手に二階のビルが二つ建っていますのでその間の道を入って行きますと150m程 で右側にあります。
平源寺
浄土宗岩槻市加倉浄国寺の末,元和(1615~1629年)の頃、僧源栄を開山とする。幕府より慶安2年2月17日寺領7石5斗の御朱印状を賜る。 寺領は今の土地にして3町7反5畝で37500hmに相当する面積だそうです。察するには当時は広い土地に大伽藍のそびえる寺ではなかったかと思われます。 明治6年の学制がしかれたとき上平野学校が平源寺を使用して開校しました。当初の児童数は男58人女17人だったそうです。当時の、平源寺は近年改築され、 寺を取り囲む森も切り倒されお堂だけが建つ明るい感じの静かな寺です。山門の前に平野学校開校記念碑が100周年のときにたてられました。
元の道に返して左に、およそ500mのところの左側の森を入ったところに上平野の鎮守の八幡神社があります。県道の右側には東部バスの車の回転する広場があり、 その後に宝蔵寺の跡と墓地があります。
八幡神社
祭神は応仁(おうじん)天皇またの名を誉田別尊で他に須賀社(祭神は素佐之男命:すさのおのみこと)も合祀されています。社殿は参道を 進み右に向きを変えたところにあり 八幡造りのやや変形した形のすばらしいものです。時節がら森や境内に手の行きとどかないのが残念な気がします。 この神社には古くから伝わる山車があり、8月15日には天王様のお祭でに賑わいます。皆さんも蓮田市民祭りの際に見たことがあると思います。 なお市民祭りにお囃(はやし)が鳴り響いていたのを聞いたこととおもいますが、あのお囃連(はやしれん)も、この八幡神社に古くから伝わる伝統芸能なのです。 江戸時代ひは大変栄えた神社であることがうかがえます.社の境内には電電者や稲荷社等の小社も祭られています。
宝蔵寺跡と石仏
通称上寺(かみでら)といい、宝蔵寺は明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となった寺で当時の寺にあった石仏などから墓地の入口付近にあります。 またこの地域は大変信仰も厚い地域だったとみえ古い形の墓石や宝篋印塔()ふうのものや笠塔婆ふうのもの等、石仏が墓石のなかにたくさん有ります。
道にでてさらに北へと進みますと500m程で高虫の歓喜寺跡があります。ここも今は墓地が残っているだけで寺はありません。 先へ50進み左に入りその道を進むと高虫の氷川神社があります。
氷川神社
氷川社の祭神は素佐之男命(すさのうのみこと)で祭日は3月9日です。境内には他に天神社や稲荷社、第六天神社、愛宕社等の小社も祭られています。 蓮田地区というか埼玉郡においては、氷川社を祭るということは大変めずらしくどのようにして祭祠されたのか興味のある問題です。埼玉郡は久伊豆神社が祭られているのです。 各村々の神社が室町時代に中世の豪族たちによって祭られたようです。高虫村では中世頃に有ったと言われる正恩寺(正恩地の地名で残っている)も無くなっていることから、 中世の頃の高虫村は一度離散し再び戦国の終わりごろ村が作られたのではないかと考えられます。 江戸期には伊奈備前守の領地であり、小室の氷川社から元禄元年(1688年)に勧請されたのではないでしょうか。(一説には天和9年(1690年)向山の地に、 武蔵国一之宮氷川社を勧請したと伝えられ、享保4年領主米津出羽の守が、社地7反歩を村人に賜り、移祀したという。元文3年本殿を建築、天保17年幣殿、並びに拝殿を建立した。 慶応元年に本殿を解体修理した。)広い神域は静かな佇まいの杜と調和し、市内でも有数の社である。本殿は彫刻がすばらしく、市の文化財の指定を受けている(昭和58年)。
歓喜寺跡
歓喜寺は真義真言宗大悲山文殊院と言っていましたが、宝蔵寺と同様に廃仏殷釈により廃寺となりました。 寺地は今は畑となりましたが、この寺も石仏が多く墓地やその周辺に残されています。 いくつか記すと、無縫塔一基、胎蔵界大日如来一体、金剛界大日如来一体、地蔵菩薩一体、六地蔵一体、闇間大王一体、奪衣婆一体その他墓石や石仏も有ります。
県道をさらに北へ500m進むと、県道行田蓮田線との交差点になります。真っ直ぐに信号を渡り200mのところ右の奥深い杉の参道を入ると妙楽寺があります。
妙楽寺
真義真言宗北足立郡倉田村明星院の末薬王山と号し、弘治年中(1555~1557年)法印覚本が開基創建する。現在は無住の寺ですが最近改築され、 静かなたたずまいの大きな寺で庭の銀杏のいろづくころは山寺と言った感じがします。妙楽寺には石仏として聖観音三体、馬頭観音二体、地蔵菩薩四体、笠塔婆一基等があります。 中でも聖観音一体は観音堂の中に祭られ「みみだれ観音」の名で近郷にも知られた霊験あらたかな観音様として有名です。
*みみだれ観音 耳の病によく効くところからこの名前があります。供えてある水(酒をくさらせたもの)をそこに置いてある竹筒に入れて持ち返り、 それを耳につけると病気がなおるそうです。治ったらお礼として、倍量のお酒をお返ししたそうです。信仰の範囲は広く江戸からも来たそうです。同様の「みみだれ観音」は 蓮田市内では下蓮田新田地区、江ヶ崎の寺前地区にもあり、昔の人々の病気に対する恐れと民間信仰の深さを知ることができます。
しばらく、神社やお寺、石仏を見たので、綾瀬川の源流点である備前堤を見に行きましょう。しかし、少し遠くそのうえ車も多いので無理なかたは中止されたい。 妙楽寺を出ると右に行く広い県道の通りとやや狭い道があります。県道をさけて右側の細い道を行きます。約1000mあり備前堤の手前で県道と合流します。
備前堤(びぜんてい)と御定杭(おさだめくい)
むかしの荒川は大河となって流れていましたが、江戸に幕府が開かれてから、関東地方の開発に乗り出し、寛永4年(1627年)元荒川と綾瀬川を分離するために小針村領家と 高虫村の間に長さ600m余の堤を築き、綾瀬川の起点としました。その後開発も進み、洪水などの害が少なくなりました。この堤を築いたときの奉行関東郡代伊奈備前守忠次の功を たたえ備前提といいました。御定杭は綾瀬川の水を断ったため綾瀬の上流部は水不足になったり、また荒川筋の人々は大雨のときなど水はけに苦しむなどのもめごとが絶えず元荒川の水を 一定量流すように備前守が定めたときの杭といわれています。現在この堤は県道行田蓮田線となって鴻巣、行田方面への重要な道路となっています。
道を元に返し、元荒川の堤防にそった農道を行くと約1000mほどのところで県道にでます。県道を横切り約300mで左折します。150m程いったところで右に曲がります。 少し行くと左の奥に天照寺が見えてきます。天照寺からは右に行くと田んぼになりますので元荒川に架かる伏越橋が見えますのでそれを目当てに行きましょう。 今通ってきた県道から天照寺までの通りのへりには個人持ちの石仏がたくさん有ります。 この道は少しわかりにくいので真っ直ぐに道を行かれて、庚申前バス停のところを右の路地に入っても、天照寺のまえに出られます。 あるいはそのまま真っ直ぐ高虫橋のたもとを右折しても伏越橋に出られます。
天照寺
禅宗曹洞派蓮田市閏戸秀源寺の末嶽周和尚なるもの文禄年中(1592~1595年)の創建と言われます。当寺にも石仏があります。
伏越(ふせこし)橋
享保13年(1728年)に見沼代用水が開削されて、見沼代用水と元荒川とが交差するために樋管を元荒川の下に通したところで伏越といっています 。当時樋管は木材で造られ四角形の管でできていたそうです。瓦葺掛樋も木材で造られていたそうですが漏水を防ぐために特種な粘土で目止めをしたそうです。 この粘土は上平野の用水を掘ったところにたった一か所だけ採れる貴重な物だったと言います。毎年の修理で粘土も枯渇してきていたそうです。出来上がった管を川の底に 埋め込みましたが水圧がかかるためにどうしても浮き上がってしまい、困りはて杭を打ち込み上がらないように止めたそうですが、それでも十分ではなく上に橋桁を載せて重しにして、 浮き上がるのを防いだとのことです。ですから初めのころの橋は伏橋といって低い橋だったそうですが、コンクリートの管に変わってから普通に見られる橋になったのだそうです。 名前も伏越橋と変わったと言います。現在の橋は昭和35年に見沼代用水整備計画によって永久橋として造られました。伏越の管も新しくなり昔の面影はなくなりましたが、 造られた当時の人々の苦労をしることができます。
井沢弥惣兵衛為永の菩提
伏越橋を渡った白岡側の常福寺境内に井沢氏の墓があります。(道路から御参りできます)見沼代用水の工事奉行であった井沢弥惣兵衛為永の報恩供養のために関係村々の 住民たちによってお墓は造られたのだそうです。伏越の白岡側にはトイレなどもありゆっくりくつろげるようになっています。帰りは見沼代用水の縁のヘルシーロードを 蓮田方面に行き池田橋のところで県道にでて左に行ったところにバスの平野停留所があります。バスは蓮田駅の西口に着きます。このコースをとると見沼代用水のほぼ全線を踏破した ことになります。もし疲れた方は伏越から真っ直ぐ柴山地区に進み最初の丁字路を左に曲がり大平橋を渡って県道に出ると、出たところがバスの停留所になっています。 (バスの回数が少ない) 蓮田駅の西口に行きます。柴山は元荒川や見沼代用水の舟運の盛んな頃には大変栄えたところで今でもその名残をとどめています。 当時の料亭(改築)が今も続けて川魚に店として営業しています。