はすだの歴史を観る
黒浜貝塚 | 元荒川の桜 | 芥川龍之介の撰文碑 | 黒浜沼 | 寅子石 |
久伊豆神社 | 円空仏 | 閏戸の式三番 | 山ノ神沼 | 見沼代用水 |
綾瀬貝塚 | 蓮田市文化財展示館 | 関山貝塚 | 高虫氷川神社彫刻 | 伊豆島の大蛇 |
備前堤 | 蓮田車站記念碑 | 武州鉄道跡 | 石造物 |
黒浜貝塚 | |
---|---|
黒浜貝塚(くろはまかいづか)は、関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡・貝塚として、昭和50年3月31日に県指定史跡に指定されていました。 |
元荒川の桜 | |
---|---|
元荒川の起点は、熊谷市佐谷田にあります。 鴻巣市のあたりで川幅が広くなり、蓮田市内ではかなりゆったりと流れます。椿山から緑町にかけて河川敷公園があり、市民の憩いの場となっています。 |
芥川龍之介の撰文碑 | |
---|---|
根金の稲荷神社の境内に、大きな石碑が残さ れています。これは、芥川龍之介による自撰(じせん)自筆のものです。刻まれた 碑文は、龍之介と親交のあった蓮田市出身の関口平太郎の善行をたたえたもので、 「正直の頭に神宿るとはかう云ふ人」と、平太郎に最大級の賛辞を贈っています。 全国で数少ない龍之介の碑文の中で、これは最も古いものとされ、さらに自撰自筆 の碑はこの稲荷神社の石碑だけということで、大変貴重な研究資料となっています 。関口平太郎は根金地区の農家に生まれましたが、幼いころに病気を患い、足が不自 由になったため、按摩師(あんまし)になりました。「生まれつき情深い人」だと記されていたことからもわかるように、平太郎は子ど ものころから、困っている人を見過ごせない心の優しい人物でした。彼は自身の困 難にもかかわらず、明治38年、東北地方が大飢饉(ききん)に襲われたとき、子ど もたちに筆や墨・紙・教科書などの学用品を贈りました。また、大正5年、平太郎 の出身地である平野村などに、就学奨励金を寄附しました。こうした数々の善行をたたえた碑文が書かれたのは、大正6年、平太郎33歳、龍之 介25歳のときです。当時龍之介は、花形流行作家として名声が高まってきていたこ ろでした。平太郎は現在の東京都新宿区で按摩業を営んでいました。彼は名按摩師 と評判が高く、いつも患者でいっぱいでした。一時期、近所に住んでいた龍之介が 平太郎の治療を受けたことによって、二人は知り合ったと言われています。以来、 二人の親交は龍之介が35歳で亡くなるまで、長い間続きました。 |
黒浜沼 | |
---|---|
黒浜沼は、JR蓮田駅から東へ約2.5キロメー トルの位置にあり、上沼と下沼の二つの沼から成っています。もとは一つの沼だったのですが、宝蓮山真浄寺の「竜宮仏縁記」によると、寛永年間(1624~43)に沼を分割、堤を築いて往還の大道とし、ここを境に上沼と下沼とに分かれたとあり、近江八景になぞられた黒浜八景の名勝の一つに数えられています。上沼周辺の休耕田や湿 地には、ヨシやマコモ、ガマなどの湿性植物が生育し、ジョウロウスゲなどの絶滅危惧種も確認されています。その他、昆虫類では、ウチワヤンマなどのトンボ類やアカガネオサムシなどの甲虫 類も多数生息しています。また、ゴイサギやシギなどの鳥類が約120種程確認されいます。下沼の岸辺には、ヨシ、マコモ等の挺水植物が繁茂し、水面には、ヒシ、トチカガミ等の浮葉植物が敷きつめられています。また、鳥類、昆虫類の生息密度も高く、人為の影響の少ない地域であり、湖沼特有の生態系を維持しています。 このように、自然度が高く、学術的にも貴重で、谷地沼として典型的な特徴を維持しているすぐれた湖沼としてあることから、黒浜沼は、1979(昭和54 )年に県自然環境保全地域に指定され保全が図られています。このように屈指の自然空間である黒浜沼は、釣り・バードウォッチングのポイントとしても知られています。 平成21年度、緑のトラスト保全第11号地に指定され、整備が進められています。。なお、黒浜沼から流れ出る水の流末は新堀に集められ、最終的に隼人堀川へ流下します。 |
寅子石 | |
---|---|
蓮田市馬込字辻谷の共同墓地に、通称「寅子石(とらこいし)」と呼ばれている板碑があります。この地域に「昔、この付近の長者の寅子というたいへん器量よしの一人娘がいた。近在の若者からの縁談がひきもきらず、胸を痛めるようになってしまった。そして、自らの命を絶ってしまった。若者たちは大いに悔い悩み、寅子の供養塔を建てた」という悲しい伝説が残されており、これに因んで、3月8日の寅子の命日には、辻谷の女性たちを中心に寅子供養が今でも行なわれています。 板碑では県内2番目の大きさを誇り、地上の高さ約4mで、長瀞町野上下郷の応安2年(1369)銘板碑の地上高約5m)に次ぐものです。板碑に関して埼玉県は質・量とも全国でも屈指のものであり、この二つが全国でも大きさの上位であることは間違いありません。昭和40年3月16日、県指定有形文化財・考古資料に指定されました。そこに刻まれた文字から、延慶4年(1311年)に唯願という者が真仏法師の報恩供養のために建立したものであることがわかります。蓮台上には「南無阿弥陀仏」の字が大きく刻み込まれています。また背面に「銭已上佰五十貫」の刻銘があり、建立に銭百五十貫を要したと考えられます。 真仏は親鸞の後継者として、親鸞帰洛後の関東教団をリードしたと考えられている親鸞の高弟です。なぜ、蓮田に真仏法師の報恩供養塔があるのかよくわかりません。建立者の唯願についても真仏の門弟と考えられているようですが、はっきりしていません。 |
久伊豆神社 | |
---|---|
蓮田市内には、駒崎・井沼・閏戸・南新宿・江ケ崎・黒浜・川島の7つの久伊豆神社があります。久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社で、祭神は大己貴命(大国主)です。久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市(きさい)党の勢力範囲とほぼ一致しています。合併により現在は加須市ですが、旧騎西町の玉敷神社はかつて「久伊豆大明神」と称しており、久伊豆の社として著名です。 7つの久伊豆神社のうち、江ケ崎久伊豆神社は市内で宮司が在住する唯一の神社です。ここはかつて南学院という寺院もあったところで、18体の円空仏が残されています。また、黒浜久伊豆神社の本殿は小規模ながらも本殿は権現造りをなし、本殿に施された妻飾・斗拱・装飾彫刻等は、江戸時代後期の神社建築様式の良く残しています。本殿彫刻は蓮田市指定文化財になっています。権現造は、日本の神社建築様式の1つで、石の間造(いしのまづくり)とも呼ばれます。本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴で、発祥は静岡県の久能山東照宮(1617年建立の社殿)といわれています。 |
円空仏 | |
---|---|
円空は、江戸時代前期、美濃国(岐阜県)に 生まれた僧侶です。しかし、詳しい生い立ちについては、いまだに多くの謎が残さ れています。 彼は民衆を苦しみから救うため、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを刻み歩いたようです。 岐阜を出発した円空は、青森を経て北海道に渡りました。そして北国の旅を終えて 故郷に戻り、40代半ばを過ぎるまでの10数年間、更に仏像づくりに打ち込んで、ごつごつした彫り痕を特徴とする、一刀彫り(いっとうぼり)の手法を確立しました 。独自の手法を確立した後は、岐阜、滋賀、愛知などに活動範囲を広げ、さらに関 東に足を延ばし、日光を訪れます。関東地方にはおよそ4年間滞在しました。 この 際、蓮田の黒浜、江ケ崎にも立ち寄り、仏像を残したのです。 市内には今も24体( 市指定5体)の像が残されていて、そのうちの観音菩薩立像など18体が、久伊豆神 社の宮司である矢島家で発見されました。 矢島家の円空仏は、埼玉県の指定文化財 (「矢島家円空仏群(やじまけえんくうぶつぐん)」)になっており、大部分が埼 玉県立博物館で保管されています。また、小さいものは蓮田市の文化財展示館で見ることができます。円空の手による仏像は、今のところ全国で4,500体あまりが確認されています。 岐阜県・愛知県に次ぐ個体数が確認されている埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿 いの地域で集中的に見つかっています。 円空について、まず、誰もが驚くのは、生涯で12万体あまりの仏像を作ったということでしょう。64年間の生涯で単純計算しても、年間で1800体以上の仏像を製作していたことになります。 数だけでなく作品としても魅力的で、円空仏は、約300年も昔の作品であるにも関わらず、今でも人々の心を打ち続けています。それは慈愛に満ちた「微笑」の魅力です。これは一般的に柔らかい表情の多い観音菩薩・地蔵菩薩だけでなく、厳めしい表情が多いとされる不動明王や仁王像に至るまで口元に微笑が込められています。 また、仏像製作を重ねるうちに造形の簡略化が進み、荒削りながらもそれが逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。 造形の簡略化は同時に仏像の量産を可能にし、本格的な仏閣に奉る仏像だけでなく、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えてくれたことは想像に難くありません。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。 仏師が経典の規範に則って製作したものとは違い、素朴で自由な造形の円空の作品は、人々に親しまれ、信仰されてきました。迷いのない力強い直線的な造形と、簡潔な彫りの中に浮かぶ慈愛に満ちた表情をもつ円空仏は、現代を生きる私たちを魅了してやみません。 |
閏戸の式三番 | |
---|---|
式三番は能楽の「翁(おきな)」から起こったもので「豊年を祈り」、「繁栄を祝う」めでたい舞で、白い面の翁と千歳(せんざい)と、黒い翁面をつけた三番叟(さんばそう)とが、次々に舞います。はじめに、翁が出て儀礼的・呪術的な舞を行い、その後に三番叟が、くだけた調子で面白く演じ、わかりやすく説明して見せます。豊年や繁栄を願うものにふさわしく、種まきや鳥飛びなどが舞の中に含まれています。翁芸は能楽の中でも特に神聖視される舞で、種々な形で神事や芸能として伝承されています。 由来: 座席順: 奉納の順序:
構成: 面について: |
山ノ神沼 | |
---|---|
蓮田市北部、元荒川の堤防後背地に広がる水田地帯と住宅地の間に位置する山ノ神沼は、面積約3.8ヘクタール、貯水量約5万7千トンを貯え、水田のかんがい用水として使われています。また、住宅地に近いにも関わらず、緑豊かで野鳥の数多く生息する貴重な水辺空間を呈し、魚釣り場としても利用されています。 このように山ノ神沼は農業用水利施設としての機能を果たしているだけでなく、古くから地域住民の生活の中に根付いている身近な水辺環境です。しかし、近年は波浪による水辺の浸食や宅地化による水質の悪化等の問題が生じていました。そこで埼玉県が事業主体となり、農業用水利施設として円滑に機能するよう保全改修を図りつつ、地域の周辺環境に調和した親水・景観・利用保全施設の整備をおこない、地域の人たちが散策や釣りなどが気軽に楽しめるような空間の創出を図りました。平成21年度に整備事業が完了し、護岸工事のほか遊歩道・湿性植物園などが作られ、散歩や釣りを気軽に楽しむことのできる憩いの場になりました。沼の周囲は「ふれあいゾーン」、「いこいのゾーン」、「やすらぎゾーン」の3つの区域に分け整備がされています。
|
見沼代用水(みぬまだいようすい) | |
---|---|
見沼代用水は、江戸 時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のた めに、武蔵国に普請したかんがい農業用水です。 |
綾瀬貝塚 | |
---|---|
埼玉県指定史跡である綾瀬貝塚は、貝塚神社付近一帯に広がる縄文時代前期の貝塚です。淡水産ヤマトシジミを主体とする主淡貝塚(神社周辺)と海水産貝類を主体とする主喊貝塚の2つで構成され、対岸の白岡町正福院貝塚とともに元荒川流域の最奥部に位置する貝塚としても知られています。 |
蓮田市文化財展示館 | |
---|---|
|
関山貝塚 | |
---|---|
大宮台地東側の岩槻支台に位置する関山貝塚は、今から約6,500年前の貝塚で関東地方の縄文時代前期の標識遺跡で、県指定重要遺跡になっています。 |
高虫氷川神社彫刻 | |
---|---|
氷川神社は、東京都・埼玉県に多く、元荒川(荒川の古い河流)を東の限界とし、西は多摩川を限界とした区域にのみ多い神社です(その他の地方では、神奈川県・千葉県・北海道に1社、茨城県・栃木県に2社あります)そしてその多くは、埼玉県大宮市にある大宮の氷川神社の分霊を移し祀ったといわれています。祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おほなむちのみこと)の三神です。 須佐之男命は、出雲国簸の川上で八岐大蛇を退治し、稲田姫命を妻と迎えました。また、新羅に渡り日本に植林法を伝えた神さまです。暴風雨神としての神格は、水や雷の信仰に裏付けられた農耕に関連しています。雷雨は転じて、田を稔らせる神、田に必要な神として農事に祀られています。このように多面的な神格のなかに、農耕守護神としての性格もあります。その御子孫には多くの田の神・水の神がおられ、八坂神社・熊野神社・津島神社など各地で農神・疫神・英雄神として信仰があります。 櫛稲田姫は、出雲の簸(ひ)の川上流で、八岐大蛇のいけにえになるところを須佐之男命に助けられ、須佐之男命の妻となりました。クシナダヒメの語意は、『神道辞典』に「クシは霊妙、したがってクシナダは、不思議に豊かに実る田」と記されております。その名の通り農耕神と結びつくようです。 大己貴命は、出雲神話の主神で、大国主神です。素盞嗚尊の六世の孫・御子ともいわれて、多くの活躍をした神です。国土開発・経営・農業、畜産・医療・禁圧(まじない)、または、健康祈願の神・福徳の神など非常に多くの功績がある神です。 高虫の氷川神社は権現造りです。権現造りは、日本の神社建築様式の1つで、本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴です。また、本殿に施された妻飾・斗拱・装飾彫刻等は、江戸時代後期の神社建築様式をよく残しています。 |
伊豆島大蛇 | |
---|---|
昔の人々は、村の外から疫病(えきびょう)や災厄(さいやく)が村内に入り込むのを防ぐために、村の出入り口で祈祷(きとう)やまじないをしました。これを民俗用語で「道切り(みちきり)」といいます。道切りは、「辻切り」「ふせぎ」「綱吊り」などとも呼ばれます。全国各地で様々な形態で行われ、その名称も多様です。疫病などは道を通って部落へ入ると考えられたことから、部落の東西南北にあたる道(辻)を霊力により疫病などから遮断してしまう(切る)ことからこのように呼ばれました。道切りは、全国的に行われていた習わしでしたが、現在残っている地域は少なくなりました。 「伊豆島の大蛇」も道切りの一つで、春祈祷に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け,災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の東西2ヶ所に立てたのだと言われています。部落内の1軒に1人が夕方〈3時頃〉集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作り、胴体は細く作りますが、これは何でも悪いことは食べてしまうようにとの願いが込められています。胴体の巻き方は注連縄と同じ「左巻き」に撚って作られています。作られた大蛇は「破竹(はちく)」と呼ばれる竹に刺して完成となり、現在は東西及び北の3方向に立てられるようになりました(東岩槻方面への新たな道路の完成によるため)。南側に立てないのは元荒川が貫流するためと思われます。現在辻札は伴わないが、以前は大蛇と共に榛名神社のお札(家内安全・五穀豊穣)を辻札として立てていました(春祈祷行事も兼ねていたものと思われる)。旧実施日は5月1 日でしたが、現在は5月3日に実施されています。 |
備前堤 | |
---|---|
備前堤は高虫村(現在の蓮田市高虫)と小針領家村(現在の桶川市小針領家)の間に築かれた堤防で、1596年~1615年(江戸時代慶長期)に伊奈備前守忠次により造られたといわれています。規模は、長さ500間余(900m余)・底部幅6間(約11m)・上部幅2間(約3.6m)です。備前堤を造った目的ですが、築造時の資料がないので明確には分かっていません。これまで、元荒川と綾瀬川とを分離するためであるとか元荒川の流路を変えるためであるとかといわれてきました。しかし、これまで地元に残された資料ではそういう内容のものはなく、洪水を防ぐためという記述が数多く残っています。耕地を水害から守るための堤は多くあり、備前堤も小室領や岩槻領の耕地を守るために造られたと考えられます。小針領家村の台地まで堤を延長していることが一つの証拠となるでしょう。また、鴻巣領の排水路である赤堀川の開削など新田開発に伴う整備と、この備前堤の築造が関連することも十分ありうることです。 江戸時代の後半は、全国的にも水害が頻発した時代です。この時期に異常気象が続発したわけではなく、それまでの新田開発の増大や、河川工事等の結果が、水害を頻発させたことになります。備前堤も例外ではありません。頻発する洪水は備前堤を境に上流部に属する村々と下流部に属する村々の激しい対立を生むことになりました。上流部では洪水が起こると備前堤があるため水が引かないし、下流部では備前堤が切れれば大きな被害を受けるという、まったく利害が相反する状況であったわけです。堤を低くしたい上流部と高くしたい下流部に対して奉行所が裁定した堤の高さを示しているのが、現在も残る写真の御定杭です。 |
蓮田車站記念碑 | |
---|---|
1885年(明治18年)大宮~宇都宮間の鉄道が開業しました。その開設にともない、蓮田地域の蓮田村や黒浜村を路線が通過することになりました。そこで、飯野吉之丞を代表とする人たちが、岩槻町に最も近い位置にあり、産物の運搬・乗客の便利に適当だとして、綾瀬村大字蓮田に駅の設置と停車場敷地の献納を申し出ました。用地として、個人所有の土地8反5畝6歩(約8450㎡)が提供され、1885年(明治18年)7月16日に蓮田駅が開業しました。 1903年(明治36年)11月に東北本線蓮田駅開業に尽力した飯野吉之丞・田口命助・吉田源左衛門・長谷部庄左衛門・小山丑松・斉藤米吉の功績を後世に伝えるために記念碑が建立されました。碑には次のようなことが書かれていて、郷土の先人である多くの先覚者の熱意と努力により駅が開設されたことを示しています。 「蓮田はもと岩槻城西の一寒村でした。この頃は人煙もまれで、樹木が多く、原は蓬や野茨にとざされ、時々芋の畑瓜の畦に鋤をかかげた農夫をみかける程度でした。東北線が大宮町から分かれて綾瀬川を渡り蓮田を通って北に向かうことになり、雑木や茅をのぞき、うっそうたる叢をおこし、土をけずり桑を抜く工事が行われた。はじめ、人形の町岩槻が車站(駅)に予定されたが、所謂誘致土地献納運動を、飯野吉之丞・田口命助・吉田源左衛門等が首唱し、あたかも蟻の甘い蜜につくが如く共鳴を得て、遂に蓮田車站設置が決定されたのでした。そして、酒店、果物屋をはじめとして商舗が建築され、瓦葺の二階建て、明るい軒燈がともり、林と草原は一変して、賑やかな駅前通りが現出した。時に当時の人達は『蕭索の三郷を繁華の巷に化すことは国利民福の事業なり』として同志が大同団結して車站納地を敢行したのでした。所期の目的を果たして10余年、同志の中に欠くる人もでてきたので当時の積極的な気概や就労の概要を記し、これを後人に伝うることも又百年の計ならずやと謹んで建碑したわけです。」(蓮田駅開設75周年駅庁舎改築竣工記念「蓮田駅開設の栞」より) 平成25年3月、蓮田駅西口駅前交通広場竣工に伴い、旧122号踏切脇から蓮田駅西口前に移設されました。 |
武州鉄道跡 | |
---|---|
明治時代の終わり頃から大正時代にかけて、政友会による地方の利益優先の鉄道政策が推進されました。武州鉄道はこのような時代背景のなかで計画され、紆余曲折の後、1924年(大正13年)10月に蓮田~岩槻間が開業しました。開業当初の駅は蓮田と岩槻しかなく、その間を15分で走っていました。翌年に河合駅と岩槻北口駅ができ、蓮田・岩槻間は18分となりました。運行本数は当初7往復で、後に6往復に減ったようです。運賃は蓮田・岩槻間で20銭でした。その後1928年(昭和3年)に岩槻~武州大門間が、1936年(昭和11年)に武州大門~神根間が開通しました。 |
石造物 | |
---|---|
蓮田市内には、900体を越える数多くの石造物が建立されています。データから推し量れることをいくつかをまとめると次のとおりです。 |
|
|