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はすだ歴史探訪

綾瀬貝塚・山ノ神沼、をたずねて

  • コース:蓮田駅西口=パルシーバス停~綾瀬貝塚~耕地整理(土地改良記念碑)~八幡橋~山ノ神沼~北向地蔵~芥川龍之介の撰文碑~根金神社~閏戸館堀之内~(郷土資料館=移転)~パルシーバス停=蓮田駅
  • 距離:6km
  • 所要時間:3時間30分
  • 地図:

綾瀬貝塚・山ノ神沼、をたずねて

今日はみなさんを貝塚、根金方面に案内しましょう。今日のコースは少し遠くなりますので途中までバスを使いたい。帰りもバスを使ってもよいのではと考えています。 蓮田駅の西口から菖蒲町方面のバスに乗ります。北原の停留所で降ります。さあここから今日のコースは始まりです。バスを降りましたら、少しいま来た方にもどります。 30m程で左に入る道がありますのでそこを進みますと122号バイパスに出ます。信号がありますので、信号を渡って反対側の歩道を左につまり北の方面に進みます。 最初の右に入る路地があったところです。

館の築造年代は室町時代といわれ、伝承では菖蒲城主佐々木氏綱の家臣黒須平内五郎,同黒須八郎左衛門の屋敷跡、下って江戸期には伊奈備前守忠次の家臣富田吉右衛門の 屋敷跡といわれているが祥らかではないです。当館は堀や土塁の一部が残り形を推測出来ます。当時の代表的館の遺構を図(省略)に示しましたので参考に考えて見ましょう。 前にお話した辻谷館、蓮田館や江ヶ崎館も同じ構えであったとも考えられます。黒浜館は裏の入江が水堀のなり形が不規則になっていたようですが、 井沼館も黒浜館と大変よく似ています。前にお話した大字城の館はどれにもあてはまらないことに気付きます。もっと、いろいろな面から比較してみるとおもしろいですね。 ご迷惑でなかったら土塁の様子などについてお聞きするのもよいと思います。

館跡を見て、まえの路地を進んで120m程行くと、突き当たりますので左に行きます。舗装された道はカーブして梨畑の角の小さな十字路を左に曲がります。 曲がりくねった道をそのまま進みますと、左側に貝塚村の鎮守稲荷神社の鳥居が建っています。神社は貝塚の中心に建立されたとおもわれ、付近一帯が綾瀬貝塚のあるところです。

綾瀬貝塚

埼玉県指定史跡(大正11年3月29日指定)貝塚神社のある一帯にかたまって三ヶ所あり、ヤマトシジミを中心とする縄文前期(5500年前)の貝塚で、 少し海水産の貝をふくむ、昭和3年に発掘調査されその後の調査はなく、元荒川沿いの貝塚としては最奥に在り、元荒川の対岸には、白岡町の正福院貝塚があり、 こちらは調査の結果アサリ、オキシジミ、サルボー、カキ、アカガイ等も出土しています。

貝塚をあとにして100m程のよころで右に曲がり田んぼにでて水路にそった道を左に行くと広い通りと交差しています。交差点の角に貝塚第二土地改良の竣工碑がたっています。 蓮田市内の広々とした耕地にはよく見掛ける石碑です。

耕地整備

蓮田市の低地は昔から沼地が多く少しづつ江戸時代の初め頃から開墾され米つくりが行われてきました。そのために不定形の田畑が多くその上用水や排水に苦しむ湿地帯でした。 農業にも大変な労働が強いられたのでした。また、収穫も不安定であったため、大正時代の中頃、元荒川の河川改修や綾瀬川の改修が行われ続いて排水の確保、田畑の土地改良が 進められ一応整ったのですが、農業の機械化、近代化をはかるためこのところ数年間大掛かりな土地改良が各地で行われたのです。江戸時代に開発が始まり実に400年の年月が 費やされ、すばらしい良質の田にすることができたあかしとして,土地改良の記念碑は次の世代の人たちに受け継がれていくのだと思います。 田の中に真っすぐにのびた道を進むと左手に山ノ神沼が見えてきます。田んぼの中にあるので見落としがちなので「まこも」の生い茂っているところを注意して捜しましょう。

山ノ神沼

山ノ神沼のあたりは鎌倉時代の頃は荒川の本流が流れていたと考えられています。したがって根金地区は荒川の中洲であったとも考えられます。 当時の荒川は高虫の方から流れて井沼神社の西側にぶつかり神社の北を流れ清水沼、つまり今の122号バイパスや福山通運のあたりから住宅地をへて山ノ神沼のほうに流れていました。 山の神沼は当時にはもう一つの沼がありおそらく上沼(かみぬま)と下沼(しもぬま)といっていたと考えられます。上沼の上に同じ発音の神をあて、そのころ大山と言われる大きな森があり、 山ノ神と唱えられたものと言われています。山ノ神沼は古い荒川の道筋が残って沼になっている河跡湖(かせきこ)なのです。

沼を見てから二つめの十字路を500m程行くとT字路になります。角に小さな祠があります。いろいろ市のパンフレットなどにある北向地蔵尊です。

北向地蔵

地蔵尊はもとは、阿弥陀如来で地蔵はその慈悲を表し間魔は忿怒を表したものとされ、地蔵を信仰すると十の福が授かるとされ昔は広く信仰されました。

*伝承では、お地蔵様はいつも北を向いていて寒いだろうと、言ってお爺さんがそっと南向きにしてあげましたが翌日もお参りに行くとまた北を向いておりました。何遍直してあげてももとどおりになっていました。この話を聞いた村人は不思議に思い、今まで以上にお地蔵様を大切にしてお線香やお供物を絶やさなかったということです。

根金神社

根金村は江戸時代には閏戸村の一部であったり、貝塚村に所属したり、根金新田村が開発され、その後二村が 合併するなど一村として独立するまで歴史的に複雑なかたちをとり現在にいたっています。そのような事情でそれぞれ小集落の神々が一つの神殿に合祀されています。 江戸時代のころの十羅刹社、愛宕社等が祭られています。他に地域内の小社も祭られています。また、境内に根金村に生まれた関口平太郎氏の顕彰碑が建てられています。

芥川龍之介の撰文碑

平野村根金に生まれた広庵、関口平太郎氏の事蹟を称えた碑で、芥川龍之介による撰文が刻まれています。 関口平太郎氏は明治17年12月10日根金村に生まれ目を患い按摩となりましたが、子供のころから人の難儀を見過ごせないという心のやさしい人でした。 岩槻で按摩の仕事をしていましたが、その頃明治38年東北地方が大飢饉に襲われ、子供たちがノートや筆など学用品のなく勉強に困っていることを知り贈って上げました。 その後もっと世の中の人々の役に立ちたい、その為には東京にでようと東京で按摩をはじめ、いろいろ困難の末、お金を蓄え大正5年、 平野小学校の子供達で困っているこのために就学奨励資金として100円を贈り、また岩槻小学校の子たちのために50円を贈りました。 当時の村の人々はこの行為にたいし翌年根金神社の境内に関口平太郎氏の顕彰碑を建て永くその功績を後の人々に伝えました。 (碑文は芥川龍之介に村人の某が使えており頼んで書いて貰ったものと言われています)

道を元に返し、大通りを左に10m行きすぐに右折します。約300mで丁字路になり右に曲がりすぐに再び丁字路になります。 そこを左に曲がって再び右折しますと昔清水沼といわれた田んぼのへりをとおって県道上尾久喜線にでます。交通量が多いので気をつけて歩きましょう。歩道橋をわたります。 歩道橋からは清水沼言われた場所が今は埋め立てられ平地となり国道122号線が通り工業地域になっていることがよく分ります。
 歩道橋の北側には今ミニ工業団地が造られていますが、ここは大正9年まで元荒川が流れていました。大正9年元荒川の大改修が行われ元荒川は北へ300mほど移動したのです。 勿論そのころには県道上尾久喜線も造られてなくて、昭和7・8年になって工事が行われました。その時に清水沼も埋め立て工事が行われたということですが、清水沼は深いところ で水深が8・9mもあって大変な工事だったそうです。それまで根金から井沼地区にある小学校や役場に用事のあるときなどは、清水沼の東南を大きく回り道をして行ったということです。
 歩道橋を渡ってそのまま南方向に向かって車に注意してしばらく歩きます。およそ250mのところの左側に万歩計を造っている山佐時計の標識がありますのでそこを曲がります。 そこから450m程のところに蓮田市郷土資料館があります

閏戸館「堀の内」

館の築造年代は室町時代といわれ、伝承では菖蒲城主佐々木氏綱の家臣黒須平内五郎,同黒須八郎左衛門の屋敷跡、 下って江戸期には伊奈備前守忠次の家臣富田吉右衛門の屋敷跡といわれているが祥らかではないです。当館は堀や土塁の一部が残り形を推測出来ます。 当時の代表的館の遺構を図(省略)に示しましたので参考に考えて見ましょう。前に、前にお話した辻谷館、蓮田館や江ヶ崎館も同じ構えであったとも考えられます。 黒浜館は裏の入江が水堀のなり形が不規則になっていたようですが、井沼館も黒浜館と大変よく似ています。前にお話した大字城の館はどれにもあてはまらないことに気付きます。 もっと、いろいろな面から比較してみるとおもしろいですね。ご迷惑でなかったら土塁の様子などについてお聞きするのもよいと思います。

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