はすだ観光協会

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黒浜貝塚 元荒川の桜 芥川龍之介の撰文碑 黒浜沼 寅子石
久伊豆神社 円空仏 閏戸の式三番 山ノ神沼 見沼代用水
綾瀬貝塚 蓮田市文化財展示館 関山貝塚 高虫氷川神社彫刻 伊豆島の大蛇
備前堤 蓮田車站記念碑 武州鉄道跡 石造物
黒浜貝塚

黒浜貝塚(くろはまかいづか)は、関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡・貝塚として、昭和50年3月31日に県指定史跡に指定されていました。
その後、蓮田市教育委員会では詳細確認調査を実施し、後述する成果が得られました。
その結果、『本貝塚は学史上著名であり、南関東の自然環境の変遷や当時の生業を考える上で重要であるとともに、集落の構造は、中期以降顕著となる環状集落の萌芽とも見られ、集落の変遷を考える上でも貴重である。』とされ、平成18年7月28日付け文部科学省告示第111号により『国指定史跡』に指定されました。
黒浜貝塚(くろはまかいづか)は、平成12年から17年の確認調査により、集落中央部分には北側谷部に向かって開口する東西約50メートル、南北40メートルの凹地状の広場を取り囲むように、住居跡31軒、土坑40数基、生活面廃棄貝層5ヶ所が存在し、集落(村)の規模は、東西約150メートル、南北約95メートル程の範囲に広がることが確認されました。
黒浜貝塚は、「黒浜式土器」の名前が付いた標式遺跡として重要であるばかりではなく、
意図的な凹地(広場)の造成、生活基盤の一つである貝殻採集のための硬砂層の利用等、当時の蓮田市周辺の自然環境を熟知し、調和を図った生活組織構造と人々の具体的な行動様式が垣間見える成果を窺い知ることができると考えています。
また、椿山遺跡などほぼ同時期の遺跡が谷を挟んで形成されているにもかかわらず、椿山遺跡内では貝塚が形成されず、黒浜貝塚では貝層が形成されるという同様な環境の中でも対照的な集落が形成されている点も特筆されます。
これらの調査成果を基に、元荒川に進入していたと思われる海水域を生活舞台とする縄文人達のより詳細な社会構造、意識構造を理解することも可能であり、今後は周辺遺跡も含めた構造把握を行うことにより、国指定史跡「黒浜貝塚」がより理解できるように細部にわたって調査を実施していきたいと考えています。

元荒川の桜

元荒川の起点は、熊谷市佐谷田にあります。
起点の付近には埼玉県の天然記念物であるムサシトミヨの生息地があります。
この場所が元荒川の源流になったのは、江戸時代(1629年)のこと。河川の氾濫をくい止めるために江戸幕府が、現在の熊谷市から新しく河道をつくり南側に荒川の流れを変えました。
それ以降、その川を荒川と呼ぶようになり、越谷市中島で中川に合流する延長60.7kmが元荒川となりました。

鴻巣市のあたりで川幅が広くなり、蓮田市内ではかなりゆったりと流れます。椿山から緑町にかけて河川敷公園があり、市民の憩いの場となっています。
また、このあたりは両岸に約470本の桜が植えられています。
中には明治時代の植えられた古い木もあり、JR蓮田駅からも近い市街地に、みごとな桜並木を形成しており、花の季節には元荒川の景色を一変するほどです。
毎年4月第1土曜日には「商工祭さくらまつり」が開催されます。

芥川龍之介の撰文碑

根金の稲荷神社の境内に、大きな石碑が残さ れています。これは、芥川龍之介による自撰(じせん)自筆のものです。刻まれた 碑文は、龍之介と親交のあった蓮田市出身の関口平太郎の善行をたたえたもので、 「正直の頭に神宿るとはかう云ふ人」と、平太郎に最大級の賛辞を贈っています。 全国で数少ない龍之介の碑文の中で、これは最も古いものとされ、さらに自撰自筆 の碑はこの稲荷神社の石碑だけということで、大変貴重な研究資料となっています 。関口平太郎は根金地区の農家に生まれましたが、幼いころに病気を患い、足が不自 由になったため、按摩師(あんまし)になりました。「生まれつき情深い人」だと記されていたことからもわかるように、平太郎は子ど ものころから、困っている人を見過ごせない心の優しい人物でした。彼は自身の困 難にもかかわらず、明治38年、東北地方が大飢饉(ききん)に襲われたとき、子ど もたちに筆や墨・紙・教科書などの学用品を贈りました。また、大正5年、平太郎 の出身地である平野村などに、就学奨励金を寄附しました。こうした数々の善行をたたえた碑文が書かれたのは、大正6年、平太郎33歳、龍之 介25歳のときです。当時龍之介は、花形流行作家として名声が高まってきていたこ ろでした。平太郎は現在の東京都新宿区で按摩業を営んでいました。彼は名按摩師 と評判が高く、いつも患者でいっぱいでした。一時期、近所に住んでいた龍之介が 平太郎の治療を受けたことによって、二人は知り合ったと言われています。以来、 二人の親交は龍之介が35歳で亡くなるまで、長い間続きました。

黒浜沼

黒浜沼は、JR蓮田駅から東へ約2.5キロメー トルの位置にあり、上沼と下沼の二つの沼から成っています。もとは一つの沼だったのですが、宝蓮山真浄寺の「竜宮仏縁記」によると、寛永年間(1624~43)に沼を分割、堤を築いて往還の大道とし、ここを境に上沼と下沼とに分かれたとあり、近江八景になぞられた黒浜八景の名勝の一つに数えられています。上沼周辺の休耕田や湿 地には、ヨシやマコモ、ガマなどの湿性植物が生育し、ジョウロウスゲなどの絶滅危惧種も確認されています。その他、昆虫類では、ウチワヤンマなどのトンボ類やアカガネオサムシなどの甲虫 類も多数生息しています。また、ゴイサギやシギなどの鳥類が約120種程確認されいます。下沼の岸辺には、ヨシ、マコモ等の挺水植物が繁茂し、水面には、ヒシ、トチカガミ等の浮葉植物が敷きつめられています。また、鳥類、昆虫類の生息密度も高く、人為の影響の少ない地域であり、湖沼特有の生態系を維持しています。 このように、自然度が高く、学術的にも貴重で、谷地沼として典型的な特徴を維持しているすぐれた湖沼としてあることから、黒浜沼は、1979(昭和54 )年に県自然環境保全地域に指定され保全が図られています。このように屈指の自然空間である黒浜沼は、釣り・バードウォッチングのポイントとしても知られています。 平成21年度、緑のトラスト保全第11号地に指定され、整備が進められています。。なお、黒浜沼から流れ出る水の流末は新堀に集められ、最終的に隼人堀川へ流下します。

寅子石

蓮田市馬込字辻谷の共同墓地に、通称「寅子石(とらこいし)」と呼ばれている板碑があります。この地域に「昔、この付近の長者の寅子というたいへん器量よしの一人娘がいた。近在の若者からの縁談がひきもきらず、胸を痛めるようになってしまった。そして、自らの命を絶ってしまった。若者たちは大いに悔い悩み、寅子の供養塔を建てた」という悲しい伝説が残されており、これに因んで、3月8日の寅子の命日には、辻谷の女性たちを中心に寅子供養が今でも行なわれています。 板碑では県内2番目の大きさを誇り、地上の高さ約4mで、長瀞町野上下郷の応安2年(1369)銘板碑の地上高約5m)に次ぐものです。板碑に関して埼玉県は質・量とも全国でも屈指のものであり、この二つが全国でも大きさの上位であることは間違いありません。昭和40年3月16日、県指定有形文化財・考古資料に指定されました。そこに刻まれた文字から、延慶4年(1311年)に唯願という者が真仏法師の報恩供養のために建立したものであることがわかります。蓮台上には「南無阿弥陀仏」の字が大きく刻み込まれています。また背面に「銭已上佰五十貫」の刻銘があり、建立に銭百五十貫を要したと考えられます。 真仏は親鸞の後継者として、親鸞帰洛後の関東教団をリードしたと考えられている親鸞の高弟です。なぜ、蓮田に真仏法師の報恩供養塔があるのかよくわかりません。建立者の唯願についても真仏の門弟と考えられているようですが、はっきりしていません。

久伊豆神社

蓮田市内には、駒崎・井沼・閏戸・南新宿・江ケ崎・黒浜・川島の7つの久伊豆神社があります。久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社で、祭神は大己貴命(大国主)です。久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市(きさい)党の勢力範囲とほぼ一致しています。合併により現在は加須市ですが、旧騎西町の玉敷神社はかつて「久伊豆大明神」と称しており、久伊豆の社として著名です。 7つの久伊豆神社のうち、江ケ崎久伊豆神社は市内で宮司が在住する唯一の神社です。ここはかつて南学院という寺院もあったところで、18体の円空仏が残されています。また、黒浜久伊豆神社の本殿は小規模ながらも本殿は権現造りをなし、本殿に施された妻飾・斗拱・装飾彫刻等は、江戸時代後期の神社建築様式の良く残しています。本殿彫刻は蓮田市指定文化財になっています。権現造は、日本の神社建築様式の1つで、石の間造(いしのまづくり)とも呼ばれます。本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴で、発祥は静岡県の久能山東照宮(1617年建立の社殿)といわれています。

円空仏

円空は、江戸時代前期、美濃国(岐阜県)に 生まれた僧侶です。しかし、詳しい生い立ちについては、いまだに多くの謎が残さ れています。 彼は民衆を苦しみから救うため、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを刻み歩いたようです。 岐阜を出発した円空は、青森を経て北海道に渡りました。そして北国の旅を終えて 故郷に戻り、40代半ばを過ぎるまでの10数年間、更に仏像づくりに打ち込んで、ごつごつした彫り痕を特徴とする、一刀彫り(いっとうぼり)の手法を確立しました 。独自の手法を確立した後は、岐阜、滋賀、愛知などに活動範囲を広げ、さらに関 東に足を延ばし、日光を訪れます。関東地方にはおよそ4年間滞在しました。 この 際、蓮田の黒浜、江ケ崎にも立ち寄り、仏像を残したのです。 市内には今も24体( 市指定5体)の像が残されていて、そのうちの観音菩薩立像など18体が、久伊豆神 社の宮司である矢島家で発見されました。 矢島家の円空仏は、埼玉県の指定文化財 (「矢島家円空仏群(やじまけえんくうぶつぐん)」)になっており、大部分が埼 玉県立博物館で保管されています。また、小さいものは蓮田市の文化財展示館で見ることができます。円空の手による仏像は、今のところ全国で4,500体あまりが確認されています。 岐阜県・愛知県に次ぐ個体数が確認されている埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿 いの地域で集中的に見つかっています。 円空について、まず、誰もが驚くのは、生涯で12万体あまりの仏像を作ったということでしょう。64年間の生涯で単純計算しても、年間で1800体以上の仏像を製作していたことになります。 数だけでなく作品としても魅力的で、円空仏は、約300年も昔の作品であるにも関わらず、今でも人々の心を打ち続けています。それは慈愛に満ちた「微笑」の魅力です。これは一般的に柔らかい表情の多い観音菩薩・地蔵菩薩だけでなく、厳めしい表情が多いとされる不動明王や仁王像に至るまで口元に微笑が込められています。 また、仏像製作を重ねるうちに造形の簡略化が進み、荒削りながらもそれが逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。 造形の簡略化は同時に仏像の量産を可能にし、本格的な仏閣に奉る仏像だけでなく、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えてくれたことは想像に難くありません。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。 仏師が経典の規範に則って製作したものとは違い、素朴で自由な造形の円空の作品は、人々に親しまれ、信仰されてきました。迷いのない力強い直線的な造形と、簡潔な彫りの中に浮かぶ慈愛に満ちた表情をもつ円空仏は、現代を生きる私たちを魅了してやみません。

閏戸の式三番

式三番は能楽の「翁(おきな)」から起こったもので「豊年を祈り」、「繁栄を祝う」めでたい舞で、白い面の翁と千歳(せんざい)と、黒い翁面をつけた三番叟(さんばそう)とが、次々に舞います。はじめに、翁が出て儀礼的・呪術的な舞を行い、その後に三番叟が、くだけた調子で面白く演じ、わかりやすく説明して見せます。豊年や繁栄を願うものにふさわしく、種まきや鳥飛びなどが舞の中に含まれています。翁芸は能楽の中でも特に神聖視される舞で、種々な形で神事や芸能として伝承されています。
また、能楽の「翁」は歌舞伎舞踊にもなっており、それは「三番叟もの」といわれるもので、祝儀用として新春などに上演されます。閏戸の式三番は、毎年10月第2土曜日(平成10年以前は10月14日)の鎮守愛宕(あたご)神社の秋祭りに行われます。昭和30年11月1日、埼玉県指定無形民俗文化財(昭和52年3月29日指定替え)に指定されています。

由来:
地元の伝承以外に式三番の由来を伝えるものは残っていませんが、それによると「宝永年間(1704年~1710年)に閏戸の秀源寺(しゅうげんじ)の僧が、愛宕明神(あたごみょうじん)を祀ったとき、五能三番の舞を復活した」といい伝えられています。

座席順:
座席順は舞台に向かって右側奥に翁、その手前に千歳、これに対座して翁の真向かいに三番叟、その手前にやや下がって足つけ(前に三番叟の役をやった人)、大鼓(おおづつみ)が並びます。翁、千歳の後にも各々の親(先代)が座ります。舞台の正面奥の囃子座(はやしざ)には向かって左側から小鼓(こづつみ)、頭取、小鼓、笛の順に並び、黒幕の後ろに地謡(じうたい)が位置します。

奉納の順序:

  1. 演技に先立ち、役者と二つの面が愛宕神社に詣でます。
  2. 「面さばき」役の人により舞台上が清められます。「面さばき」は千歳の親に当たります。
  3. 幕が開くと小鼓・笛の囃子方は既に着席しています。千歳が白式尉と黒式尉の面が入った面箱を持って登場し、観衆に向けて披露します。面箱が披露されると、次いで「翁」役が独特の摺り足で登場して所定の位置に着席します。千歳は着席した太夫の前に面箱を静かに置きます。
  4. 「三番叟」が登場します。三番叟は登場時から実にダイナミックな舞を披露しますが、それは直面舞(揉の段)にも引き継がれます。
  5. 囃子が始まり翁と地謡の謡となります。
  6. 「鳴るは滝の水…」と謡いながら千歳が登場し、千歳の舞が始まります。この間に、翁役は親から白式尉面が着けられ、「翁」つまり神に変身します。
  7. 千歳の舞が終わると、翁と地謡の謡となります。その後、翁が立ち上がり歩き出すと、同時に三番叟も立って歩き出し、両者向かい合って一礼します。.一礼の後、三番叟は元の座に戻りますが、翁は正面に進み出て舞い始めます。
  8. 翁は大地を語る祈祷の詞を謡った後、踏み鎮めの舞を舞います。最後に、お祝いの踊りとしてめでたい舞(萬歳楽)を舞うと、扇を頭上に捧げます。翁は舞い終わると白式尉の面を外して面さばきに戻します。そして、入場した時と同じように摺り足で退場します。
  9. 翁の舞が終了すると、大鼓が登場します。
  10. 三番叟が立ち上がり、舞い始めますが、このときは面をつけていません(揉の段)。地の悪霊を鎮める舞を狂わんばかりに舞います。
  11. 直面の舞が終わり、いったん座に戻った三番叟が面さばきにより黒式尉の面をつけ、神となり再登場します。千歳も再登場し、舞台正面で両者の問答となります。
  12. 問答が終わり、千歳から鈴を受け取った三番叟が、再び舞い始めます(鈴の段)。神となった「三番叟」の舞も激しいものです。鈴は邪鬼を祓う祭具ですが、三番叟はその鈴を天地四方に響かせて邪鬼を祓い、精霊を奮い立たせます。舞い終わると、「面さばき」により黒式尉の面が外されます。
  13. 直面に戻った「三番叟」が丁寧に挨拶して退場すると、囃子方も一礼して次々に退場します。そして幕が引かれ、「閏戸の式三番」は閉幕します。

構成:
式三番を行う人たちは、閏戸の若衆(わかしゅう)といわれている人たちです。若衆というのは各家の総領である20歳位から42歳までの男子で構成されています。しかし、現在では構成員の確保が難しいので、総領というのは要件になっていません。
千歳、翁、三番叟や、笛、大鼓、小鼓の人たちを役者と呼び、その他の若衆は地謡にまわります。また、先代の役者を親、先々代をオジイサンと呼びます。親は役者の指導に当たり、立役(翁・千歳・三番叟)の親は当日舞台に控えて介添え役をします。千歳の親は面さばき、三番叟の親は足つけと称します。役者に支障があって出られないときは、親が代わりに演じます。

面について:
式三番では、2種類の翁面が使用されます。翁がつける面は、白色尉(はくしきじょう)といって、天下太平を象徴するものです。この面は、切り顎が特徴で、長寿・福徳の神を人の姿に表現したものといわれ神聖視されています。対して、三番叟がつけるものは、黒色尉(こくしきじょう)といって、五穀豊穣を表しています。この面の特徴は、名前が示すように色が黒いことです。また、白色尉と同様に切り顎になっています。三番叟(黒色尉)は式三番独特のもので、最後に舞う田の神で、野趣にあふれた翁となっています。

山ノ神沼

蓮田市北部、元荒川の堤防後背地に広がる水田地帯と住宅地の間に位置する山ノ神沼は、面積約3.8ヘクタール、貯水量約5万7千トンを貯え、水田のかんがい用水として使われています。また、住宅地に近いにも関わらず、緑豊かで野鳥の数多く生息する貴重な水辺空間を呈し、魚釣り場としても利用されています。 このように山ノ神沼は農業用水利施設としての機能を果たしているだけでなく、古くから地域住民の生活の中に根付いている身近な水辺環境です。しかし、近年は波浪による水辺の浸食や宅地化による水質の悪化等の問題が生じていました。そこで埼玉県が事業主体となり、農業用水利施設として円滑に機能するよう保全改修を図りつつ、地域の周辺環境に調和した親水・景観・利用保全施設の整備をおこない、地域の人たちが散策や釣りなどが気軽に楽しめるような空間の創出を図りました。平成21年度に整備事業が完了し、護岸工事のほか遊歩道・湿性植物園などが作られ、散歩や釣りを気軽に楽しむことのできる憩いの場になりました。沼の周囲は「ふれあいゾーン」、「いこいのゾーン」、「やすらぎゾーン」の3つの区域に分け整備がされています。

  • ふれあいゾーン:住宅地に近い区域であり、沼の水辺を整備することで、訪れた人が水辺とのふれあいによって、自然環境の大切さの理解を深め、沼の保全管理に努める区域です。
  • いこいのゾーン:田園風景を楽しみながら、整備された水路沿いを散策し、沼とのつながりや機能を理解することのできる区域です。
  • やすらぎゾーン:ヨシ、ススキ等の繁茂により豊かな自然環境を呈し、沼周辺に生息する動植物の生態系を現状のまま保全する区域です。
見沼代用水(みぬまだいようすい)

見沼代用水は、江戸 時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のた めに、武蔵国に普請したかんがい農業用水です。
名前の通り、かんがい用溜池であ った見沼溜井の代替用水路でした。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川よ り取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区 に至ります。特に蓮田境では『柴山の伏越(しばやまのふせごし)』(白岡町境)と『瓦葺の掛渡井(かわらぶきのかけどい)』(上尾市境)という川との立体交差の難工事が2箇所あり、『伏越』は元荒川の河床下を木製樋管を2本埋設して水を通しましたが、昭和3年にコンクリート製となりました。また、『掛渡井』は綾瀬川の上を幅14メートル、長さ50メートルの木造の樋を渡したものでしたが、綾瀬川洪水最高水位の考慮や老朽化・修築の負担から、昭和35年に伏越となりました。また、見沼代用水は江戸への舟運路として、鉄道開通までは重要な物資輸送ルートとして使用されていましたが、鉄道開通と共に徐々に衰退していきました。 この見沼代用水開削の経緯と詳細は次のとおりです。
徳川吉宗が8代将軍として始めた享保の改革により、幕府の財政建て直しのための増収策として、新田開発が本格化しました。武蔵国の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在しましたが、ここを新田として開拓することが決められました。
これらの溜井の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになりました。この事業を吉宗から命じられた、勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永は、周囲を調査し、利根川や荒川の治水も考慮して埼玉郡(さきたまぐん)から足立郡を抜ける約80kmの幹水路に加え、高沼用水路などの分流路も多数開削することで、流域周囲の沼地を干拓した後の水源とすることを計画しました。
大規模な工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5か月後の1728年2月で、3月には利根川から水を流し込み用水路の利用が始まっています。期間だけでなく、いろいろな面で当時の工事水準の高さを垣間見ることができます。例えば、利根川から取水されることとなりましたが、その場所は現在の行田市にあった下中条村の地でした。この付近の利根川の流れは水深が年間を通して安定していたほか、享保以前100年間の洪水時でも堤の決壊したことがないなど、好条件がそろった場所であったからです。現在の見沼代用水の取水口も江戸時代とほぼ同地点の利根大堰ですから、当時の土木水準の高さを感じることができます。また、建設のための測量は、利根川からの上流側と見沼溜井から流れ出ていた芝川の下流側からの二手に分かれて進められましたが、水盛りとよばれた水準測量により行われ、30間(約55m)につき3寸(約9cm)の傾斜、すなわち1/600の勾配が付くように正確に進められたそうです。
その精度は高く、利根川側と芝川側からの測量が出会った地点でわずかに約6cm(2寸)のずれしかなかったと伝わっています。さらに、水路となる場所は、既存の水田を避けて出来るだけ未開の場所を選択し、減水を防ぐため比較的地盤の固い場所を選んで決められています。

綾瀬貝塚

埼玉県指定史跡である綾瀬貝塚は、貝塚神社付近一帯に広がる縄文時代前期の貝塚です。淡水産ヤマトシジミを主体とする主淡貝塚(神社周辺)と海水産貝類を主体とする主喊貝塚の2つで構成され、対岸の白岡町正福院貝塚とともに元荒川流域の最奥部に位置する貝塚としても知られています。
昭和初期に大山自然学研究所等により発掘調査が実施され、イルカの骨の出土等が報告されています。
綾瀬貝塚の貝の構成から、当時このあたりまで海が来ていたことがわかります。このことから綾瀬貝塚とともに話される事柄に「縄文海進」があります。
縄文海進とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。
この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。
その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。
花粉化石や貝化石の研究に基づくと、この時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。なぜこのような変化があったのか、次のように説明されています。
最終氷期と呼ばれる今から約10000年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。
これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、 氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。この北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約19000年前以降、氷床から遠く離れた場所では、 海面は年間で1~2センチメートルというものすごい速さをもって100メートル以上も上昇し、 ちょうど約7000年前までには海面が一番高くなりました。これが縄文海進の原因です。 しかし、その後起こった海退の原因は、氷床が再拡大したためではなく、その後、氷床融解による海水量が増大したことによって、 その海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降した結果、見かけ上、海面が下がって見えることによります。
これが約7000年前の縄文海進の背景にある地球規模の出来事です。

蓮田市文化財展示館
  • 開館時間:午前9時から午後5時まで 休館日:月曜日、奇数月末日(当該日が土・日曜日の場合は、月内において末日に最も近い日)、国民の休日(こどもの日・文化の日を除く)
  • 入館料:無料 所在地:〒349-0101蓮田市黒浜2801番地1(電話・ファックス)048-764-0991
  • 交通案内:JR宇都宮線蓮田駅東口からバス(パルシー・根金・下大崎・菖蒲仲橋・蓮田駅西口行き)「蓮田市役所」下車、徒歩2分
詳細は「蓮田市文化財展示館」をご覧ください。
関山貝塚

大宮台地東側の岩槻支台に位置する関山貝塚は、今から約6,500年前の貝塚で関東地方の縄文時代前期の標識遺跡で、県指定重要遺跡になっています。
蓮田市内には南東方向に細長い2つの支台が存在するが、その中で岩槻支台は西側にあたり、東側を元荒川が、西側を綾瀬川が流れています。
岩槻支台の中央部は両河川がせばまって、標高16mほどの馬の背状台地になっていて、周辺の水田面となっている低地からは8mほどの高さです。
関山貝塚はこの台地くびれ部のやや南側で、綾瀬川に面した標高15m前後の台地上に立地しています。現在は、遺跡の存在する台地の裾部分に見沼代用水が流れ、遺跡の一部が洗われています。
関山貝塚は明治期から著名であったが、昭和初期に大山史前学研究所によって行われた、海進時における奥東京湾の海岸線調査の際に発掘が行われました。
出土した土器は、山内清男博士により「関山式」と命名された経緯をもっています。その後、関山貝塚に対する調査は行われませんでしたが、昭和46年に土採取事業に先立って、埼玉県教育委員会が発掘調査を行い、3軒の住居跡がみつかりました。その後、平成7年に蓮田市教育委員会が調査を行い、住居跡1軒を確認しました。
この貝塚から出土した土器は、粘土に植物繊維を混ぜて焼いていることと羽状縄文と呼ばれる縄目の文様がつくなどの特徴をもっています。関山式土器と呼ばれるこの土器は、縄文時代の土器を分類するときの基準資料の一つとなっています。土器は埼玉県立歴史と民俗の博物館に展示されています。

高虫氷川神社彫刻

氷川神社は、東京都・埼玉県に多く、元荒川(荒川の古い河流)を東の限界とし、西は多摩川を限界とした区域にのみ多い神社です(その他の地方では、神奈川県・千葉県・北海道に1社、茨城県・栃木県に2社あります)そしてその多くは、埼玉県大宮市にある大宮の氷川神社の分霊を移し祀ったといわれています。祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おほなむちのみこと)の三神です。 須佐之男命は、出雲国簸の川上で八岐大蛇を退治し、稲田姫命を妻と迎えました。また、新羅に渡り日本に植林法を伝えた神さまです。暴風雨神としての神格は、水や雷の信仰に裏付けられた農耕に関連しています。雷雨は転じて、田を稔らせる神、田に必要な神として農事に祀られています。このように多面的な神格のなかに、農耕守護神としての性格もあります。その御子孫には多くの田の神・水の神がおられ、八坂神社・熊野神社・津島神社など各地で農神・疫神・英雄神として信仰があります。 櫛稲田姫は、出雲の簸(ひ)の川上流で、八岐大蛇のいけにえになるところを須佐之男命に助けられ、須佐之男命の妻となりました。クシナダヒメの語意は、『神道辞典』に「クシは霊妙、したがってクシナダは、不思議に豊かに実る田」と記されております。その名の通り農耕神と結びつくようです。 大己貴命は、出雲神話の主神で、大国主神です。素盞嗚尊の六世の孫・御子ともいわれて、多くの活躍をした神です。国土開発・経営・農業、畜産・医療・禁圧(まじない)、または、健康祈願の神・福徳の神など非常に多くの功績がある神です。 高虫の氷川神社は権現造りです。権現造りは、日本の神社建築様式の1つで、本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴です。また、本殿に施された妻飾・斗拱・装飾彫刻等は、江戸時代後期の神社建築様式をよく残しています。

伊豆島大蛇

昔の人々は、村の外から疫病(えきびょう)や災厄(さいやく)が村内に入り込むのを防ぐために、村の出入り口で祈祷(きとう)やまじないをしました。これを民俗用語で「道切り(みちきり)」といいます。道切りは、「辻切り」「ふせぎ」「綱吊り」などとも呼ばれます。全国各地で様々な形態で行われ、その名称も多様です。疫病などは道を通って部落へ入ると考えられたことから、部落の東西南北にあたる道(辻)を霊力により疫病などから遮断してしまう(切る)ことからこのように呼ばれました。道切りは、全国的に行われていた習わしでしたが、現在残っている地域は少なくなりました。 「伊豆島の大蛇」も道切りの一つで、春祈祷に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け,災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の東西2ヶ所に立てたのだと言われています。部落内の1軒に1人が夕方〈3時頃〉集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作り、胴体は細く作りますが、これは何でも悪いことは食べてしまうようにとの願いが込められています。胴体の巻き方は注連縄と同じ「左巻き」に撚って作られています。作られた大蛇は「破竹(はちく)」と呼ばれる竹に刺して完成となり、現在は東西及び北の3方向に立てられるようになりました(東岩槻方面への新たな道路の完成によるため)。南側に立てないのは元荒川が貫流するためと思われます。現在辻札は伴わないが、以前は大蛇と共に榛名神社のお札(家内安全・五穀豊穣)を辻札として立てていました(春祈祷行事も兼ねていたものと思われる)。旧実施日は5月1 日でしたが、現在は5月3日に実施されています。

備前堤

備前堤は高虫村(現在の蓮田市高虫)と小針領家村(現在の桶川市小針領家)の間に築かれた堤防で、1596年~1615年(江戸時代慶長期)に伊奈備前守忠次により造られたといわれています。規模は、長さ500間余(900m余)・底部幅6間(約11m)・上部幅2間(約3.6m)です。備前堤を造った目的ですが、築造時の資料がないので明確には分かっていません。これまで、元荒川と綾瀬川とを分離するためであるとか元荒川の流路を変えるためであるとかといわれてきました。しかし、これまで地元に残された資料ではそういう内容のものはなく、洪水を防ぐためという記述が数多く残っています。耕地を水害から守るための堤は多くあり、備前堤も小室領や岩槻領の耕地を守るために造られたと考えられます。小針領家村の台地まで堤を延長していることが一つの証拠となるでしょう。また、鴻巣領の排水路である赤堀川の開削など新田開発に伴う整備と、この備前堤の築造が関連することも十分ありうることです。 江戸時代の後半は、全国的にも水害が頻発した時代です。この時期に異常気象が続発したわけではなく、それまでの新田開発の増大や、河川工事等の結果が、水害を頻発させたことになります。備前堤も例外ではありません。頻発する洪水は備前堤を境に上流部に属する村々と下流部に属する村々の激しい対立を生むことになりました。上流部では洪水が起こると備前堤があるため水が引かないし、下流部では備前堤が切れれば大きな被害を受けるという、まったく利害が相反する状況であったわけです。堤を低くしたい上流部と高くしたい下流部に対して奉行所が裁定した堤の高さを示しているのが、現在も残る写真の御定杭です。

蓮田車站記念碑

1885年(明治18年)大宮~宇都宮間の鉄道が開業しました。その開設にともない、蓮田地域の蓮田村や黒浜村を路線が通過することになりました。そこで、飯野吉之丞を代表とする人たちが、岩槻町に最も近い位置にあり、産物の運搬・乗客の便利に適当だとして、綾瀬村大字蓮田に駅の設置と停車場敷地の献納を申し出ました。用地として、個人所有の土地8反5畝6歩(約8450㎡)が提供され、1885年(明治18年)7月16日に蓮田駅が開業しました。 1903年(明治36年)11月に東北本線蓮田駅開業に尽力した飯野吉之丞・田口命助・吉田源左衛門・長谷部庄左衛門・小山丑松・斉藤米吉の功績を後世に伝えるために記念碑が建立されました。碑には次のようなことが書かれていて、郷土の先人である多くの先覚者の熱意と努力により駅が開設されたことを示しています。 「蓮田はもと岩槻城西の一寒村でした。この頃は人煙もまれで、樹木が多く、原は蓬や野茨にとざされ、時々芋の畑瓜の畦に鋤をかかげた農夫をみかける程度でした。東北線が大宮町から分かれて綾瀬川を渡り蓮田を通って北に向かうことになり、雑木や茅をのぞき、うっそうたる叢をおこし、土をけずり桑を抜く工事が行われた。はじめ、人形の町岩槻が車站(駅)に予定されたが、所謂誘致土地献納運動を、飯野吉之丞・田口命助・吉田源左衛門等が首唱し、あたかも蟻の甘い蜜につくが如く共鳴を得て、遂に蓮田車站設置が決定されたのでした。そして、酒店、果物屋をはじめとして商舗が建築され、瓦葺の二階建て、明るい軒燈がともり、林と草原は一変して、賑やかな駅前通りが現出した。時に当時の人達は『蕭索の三郷を繁華の巷に化すことは国利民福の事業なり』として同志が大同団結して車站納地を敢行したのでした。所期の目的を果たして10余年、同志の中に欠くる人もでてきたので当時の積極的な気概や就労の概要を記し、これを後人に伝うることも又百年の計ならずやと謹んで建碑したわけです。」(蓮田駅開設75周年駅庁舎改築竣工記念「蓮田駅開設の栞」より) 平成25年3月、蓮田駅西口駅前交通広場竣工に伴い、旧122号踏切脇から蓮田駅西口前に移設されました。

武州鉄道跡

明治時代の終わり頃から大正時代にかけて、政友会による地方の利益優先の鉄道政策が推進されました。武州鉄道はこのような時代背景のなかで計画され、紆余曲折の後、1924年(大正13年)10月に蓮田~岩槻間が開業しました。開業当初の駅は蓮田と岩槻しかなく、その間を15分で走っていました。翌年に河合駅と岩槻北口駅ができ、蓮田・岩槻間は18分となりました。運行本数は当初7往復で、後に6往復に減ったようです。運賃は蓮田・岩槻間で20銭でした。その後1928年(昭和3年)に岩槻~武州大門間が、1936年(昭和11年)に武州大門~神根間が開通しました。
武州鉄道は当初から政府の補助金を当てに営業していました。補助期限が開業から10年間のため1937年(昭和12年)で打ち切りになってしまうため、営業区間を延ばすなどの努力をしてきましたが、そのかいなく営業不振のため1938年(昭和13年)会社を解散しました。
武州鉄道は、JR蓮田駅の東口にある現在の駐輪場を武州鉄道蓮田駅としていました。そこから延びる線路は、現在の蓮田市中央公民館裏の駐車場を通り大きく左にカーブしながら南に進んでいきました。住宅地図を見ますとその軌跡がいまでもよくわかります。根ケ谷戸公園の東に位置するあたりでのくぼ通りを渡りそのまま竹林に入っていきます。ここは現在も軌跡が残っている場所です。竹林を抜けたところにある材木店の端に「馬込車站建設碑」が立っています。この先も、道路や畑の境などから軌跡はたどれます。

石造物

蓮田市内には、900体を越える数多くの石造物が建立されています。データから推し量れることをいくつかをまとめると次のとおりです。

  1. 『馬頭観音(ばとうかんのん)』がどの村にもまんべんなく分布し100基もの数があることは、江戸時代の農耕に『馬』が非常に重要であり、重用されたいたことを物語る資料と言えるでしょう。今でも残る古い民家では、牛馬は母屋の中にその飼育場所があることも珍しくないことからもその重要性は推し量ることが出来ます。
  2. 『地蔵(じぞう:104基)』や『庚申塔(こうしんとう:65基)』は多く存在していますが、当時の信仰に係わる資料として現在まで伝わるものであり、ほぼ旧村落にまんべんなく建立されています。また、庚申信仰はつい最近まで行なわれていたものも多く、民俗行事調査からも窺い知れるものです。また、『稲荷(いなり:8基)』も多く、まんべんなく旧村落に分布することも「稲荷信仰」への密着の深さがうかがえます。ここに挙げた個数は、各家のものは含まれていませんので、各家の稲荷関係の石造物も加えたら、相当な数になることでしょう。また、『初午(はつうま)』と呼ばれる民俗信仰も最近まで各地区で行なわれており、様々な行事が当時の人々にとって、信仰の対象となりながらも余暇の対象としても並存していたことをうかがい知ることが出来るでしょう。
  3. 『力石(ちからいし)』も46基と多く、ほぼ旧村落にまんべんなく残されています。当時でも「農閑期」に力比べをしながら、村の人々で余暇を楽しんだことでしょう…。
  4. 地蔵や無縫塔に下蓮田に偏在する傾向も見えますが、これは、この地区に所在するお寺にあるもので、当時からあったものか、その後に地区内のものが集められたものかは知ることが出来ませんでした。
  5. 道標(みちしるべ)は、単独で存在するものは僅かに4基ですが、庚申塔などに刻まれているものも含めると合計52基が市内に存在しています。江戸時代後期以降の蓮田市周辺の人の動きを窺うことが出来ます。その名残りは、様々な地区の道路脇に存在する道標からも読み取ることが出来ますが、貝塚に存在する庚申塔も兼ねた道標には、元荒川方面に向かって「川越場」という言葉が刻まれています。これに対し、綾瀬川の傍にある道標には、綾瀬川に向かって「橋を渡って○○」と刻まれており、当時の河川の渡り方を知ることもできる貴重な資料となっています。
  6. 板碑は、「板石塔婆(いたいしとうば)」と呼ばれる他の石造物と比較すると更に古い時代の中世に造られたものですが、中世寺院が存在したと思われる地域(江ヶ崎や下蓮田)には多く存在していますが、その他の地域は散在する傾向も見えますが、これらは表に残されているものであり、発掘調査によって今はなくなってしまった中世寺院等の調査が行なわれれば、その数は大きく変わってくることと思われます。
詳しくは「蓮田市ホームページ」をご覧ください
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