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はすだ歴史探訪

丸城、天満社、白岡八幡宮、御殿場公園、堂山公園、蓮田駅(前半コース)

  • コース:蓮田駅西口~城沼(城のいわれ)~天満社~斎藤家の長屋門~久伊豆神社~林昌寺~白岡八幡宮(鬼窪氏)~正福院(しょうふくいん)~白岡駅
  • 距離:8km
  • 所要時間:2時間30分
  • 地図:

丸城、天満社、白岡八幡宮、御殿場公園、堂山公園、蓮田駅

蓮田駅の西口を右に行き、旧国道122号線を渡り駐車場脇の小道に入ってななめに遊歩道を進みます。そのまま行くと堂山公園前に出ます。 堂山公園をすぎ図書館先を右折直進すると、新122号バイバス隧道の上に出ます。ここを左折し150mほどの交差点を右折し、元荒川にかかる新荒川橋をわたると、 T字交差点角に「榎戸公園」があります。榎戸とは古い言葉で川などの渡し場の意味で、昔このあたりに黒浜と蓮田地区を結ぶ渡しがあったのでしょう。道路は大きく カーブして西城沼公園の信号に出ます。交差点を渡った西城沼公園で一息入れましょう

城(ジョウ)のいわれ

バス停のわきに台地があり木立のなかに農家がみられますこの地を通称三軒家(サンゲンヤ)といいます。江戸時代に書かれた本「新編武蔵風土記稿」に 城村の小字名として丸城向山屋敷(まるじょうむこうやまやしき)、山通り,三道島の地名があるところから、丸城(まるじょう)は城(しろ)があったための名ではないかといわれています。 「新編武蔵風土記」に「一に城(じょう)と云う、四方沼田なり、古へは城(シロ)ありし處なるべし、されど何人の居し事を伝へず,批辺に広さ八反程の所水殊に深き沼あり」と 書かれています。つづいて、丸城(まるじょう)の地に城観寺(じょうかんじ)(新義真言宗足立郡倉田村明星院の末東山と号す、本尊弥陀)が存在したことが書かれています。 ジョウとは城観寺のことを言ったのかジョウは城ではなく古いことばの開墾とか畑つくりの意味科学者の研究でも定かではないようです。城が仮にあったとしても7~8百年前の頃の ことで,○○城とはいわず○○館といった時代でもあり、言語学者にも疑問を持たれています

城沼(じょうぬま)

城沼は黒浜台地が侵食されて出来た谷で奥東京湾の海退のとき取り残された海跡湖でこのような沼地は大宮、岩槻、蓮田や黒浜の台地の周りに残っています。平野地区の清水沼は(今は埋め立てられ工業地帯となり姿を消す)や弁天沼、閏戸地区の山ノ神沼は荒川の川道の跡です。城沼は東の谷の東沼と西の谷の西沼と二つ有り西沼の方が大きく、東沼は城沼へラセンターになっています。西沼一帯の谷を公園として整備したのが西城沼公園です。 城沼公園をでて、城自治会館の左の坂道を登っていくと旧家齋藤家があります。齋藤家の長屋門は蓮田市でも数少ない現存している門です。城地区の鎮守の天満宮神社は 自治会館の前を左に行き歩道橋を渡った角にあります。数年前焼失し新しく建てられたお宮で社地も大宮栗橋線の開通で狭くなり樹木も」だいぶ少なくなりました。

齋藤家の長屋門 柱が礎石の上に残っている造りで小壁が低く全体としても軒の低い造りで「室町づくり」と言われるそうです。江戸時代元禄(げんろく)頃(1688年)に 建てられ、幕末の頃に修理され、最近では昭和48年に」修理が行われました。伝承では齋藤家は戦国期に生家の滅亡により修験者となり各地を遍歴の後、この地に居を構えこの地の 開発にあたり村の子弟に学問や剣術を教えたといわれ、明治期にも長屋門の部屋で教えていました。江戸期には代々名主として村の世話をし明治にはいると戸長役場をつとめました。

齋藤家を辞して、門前の小道を左手に20m行き右折して90m程で左に坂をくだると、台地の下にある山裾の道にでます。山裾の道を右に600m程で上島公園に着きます。 上島公園の北の角地の反対側T字路の崖に細い階段が20段あります。登るとそこに南新宿の鎮守の久伊豆神社があります。

久伊豆神社

久伊豆神社は江戸期には南新宿村の両村の鎮守でしたが何時の頃からか南新宿一村の持ちとなったようです。明治初期の本、「武蔵国郡村誌」には南新宿の村社と書かれています。祭神は大貴巳命(おおむなちのみこと)で祭日は2月初午の日と9月9日です.当村には稲荷社が東の方にありますがこの社も祭日は同じ日になっています.先年、樹齢数百年の御神木に落雷があり焼失し若い杉の木を植えて育てています。

神社の右手に小道があるのでそこを進みます。右手に黒浜北小学校をみながら集落の中を進みT字路に突き当たりますので左に行くと 、大通りの先に南新宿の林昌寺(りんしょうじ)があります。

林昌寺(りんしょうじ)

禅宗曹洞派白岡町白岡興善寺末、開山は興善寺七世家山解伝大和尚元禄8年8月寂す。(1695年)と記されています。およそ300年前の創建ということが分ります。 林昌寺で休んだあと広い通りを右に行き90mで右折し小道を進みます。小道に入って200m進むと二つめの十字路がありますので、そこを左に曲がって行きますと、 坂道になり山裾の道下ります。そこは白岡町との境です。足をのばして白岡の八幡神社まで行きましょう。台地の裾の道(汀線:みぎわせん)を右にとり住宅地と台地の森との間の 道を北の方向に800m行くと右手に白い大きな建物が見えてきて広い通りにでます。右折してなだらかな坂道を登っていき左に入る道路があります。八幡宮の参道です。 車も入ってきますので注意して進むと左手に社があります。

白岡八幡宮(しらおかはちまんぐう) 

この社は嘉祥3年(849年)の創建と伝えられ、祭神は正八幡宮(応神天皇)若宮八幡宮(仲哀天皇)姫宮八幡宮(神宮皇后)の御三体が祀られています。 当時の縁起によると康平5年(1062年)源八幡太郎義家(みなもとのはちまんたろうよしいえ)が奥州征伐の途中、戦勝祈願の為、当社に立ち寄ったと記されています.又,建久6年(1195年)征夷大将軍頼朝は当社に佐々木四郎高綱を代参させ、土着の武士鬼窪某(おぎくぼ)(野与党)に命じて社殿を造らせると共に百余貫文の所領を寄進し源氏の守護社としてあがめたと伝えられています。 戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力で江戸期には徐に復活して、昭和45年現在の社殿を改築しました。 当社には,享徳5年((1456年)銘の 鰐口が現存し古い歴史を物語っています。境内には樹齢600年という榧(カヤ)の木があり、参道のわきには,義家が馬を繋いだ木と伝えられる杉の木、 御神木だった枯れ木が保存されています。御神木は大正6年(1917年)落雷にあい樹精衰え同9年台風にて倒伏して、御神木の寿命も終わりとなり大事に切り取り雨屋(アマヤ)をかけ て保存をしたものが今もあります。

※八幡宮を出て左方向に100m進み、左折し200mほどで名刹正福院があります。

正福院(しょうふくいん)

嘉祥3年(849年)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)(天台座主)の創建で本尊薬師如来は慈覚大師の作と言われています。 草創時は八幡宮の別当寺で天台宗であったが建久6年(1195年)改宗して真言宗となりました。境内には正徳3年(1713年)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や (中国で宝篋印陀羅尼(だらに)の経文を納めた、日本では平安から鎌倉時代にかけて供養塔や墓碑塔として立てられた石造りが多い)宮沢賢治の詩碑、室生犀星の詩碑があり、 墓地周辺は貝塚で町指定の文化財となっています。

正福院をあとに左方向に進み、クランク右折し直ぐに左折し進むと商工会館脇にでます。商工会館の右100mの交差点を左折、道なりに450mほどすすむと白岡駅です。

もっと歩きたいという方は、「後半コース」に進んでください。