はすだ歴史探訪
円空仏と江ヶ崎城跡をたずねて
[ふるさと歴史探訪 / 中里忠博著]より
- コース:蓮田駅東口(バス)==東埼玉病院バス停~久伊豆神社~南江筆塚碑~円空仏~花井家の鰐口(わにぐち)~たにし不動尊~江ヶ崎城跡~~保福寺~兵見塚古墳跡(黒浜運動公園)~東埼玉病院バス停=蓮田駅
- 距離:6km(一部バス利用)
- 所要時間:4時間
- 地図:
今日ご案内する江ヶ崎方面は蓮田駅より若干遠いので、途中までバスを利用したい。 蓮田駅の東口から東埼玉病院行きに乗り、病院入口で下車します。 下車しましたらそのまま県道蓮田杉戸線をすすまれてもよいが、交通量が多いので旧道を行きたい。バスを降りたら、東埼玉病院の正門まで30m程進み十字路を右に曲がり、 県道を見ながら進み突き当りを右に行き県道を横切ります。300m少し行くと宮司の矢島家の標識があります。宮司の家の左側の路地を入ると江ヶ崎の鎮守久伊豆神社があります。
久伊豆神社
祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)で社伝によれば室町時代の嘉吉3年(1443年)この地に鎮座したという。現在も大きな森に囲まれているが、 近くに宮地などのことばが残っていることから昔はかなり広い境内を持っていたことがわかります。社は立派とはいえない(その後火事で焼けてしまい新築した) が拝殿の中には立派な絵馬があり時間をかけて観賞したい。境内には筆塚が建っています。
南江筆塚碑
南学院法印慶学は矢島家の12代で春渕の門人で学問書画に勝れ「麗玉齋南江」と号し、漢学を教えてその門弟のかずは500人を越え、 江ヶ崎はもとより近郷近在から遠くは春日部、岩槻からも学びに来たと言われ、碑は門弟たちが元治元年(1864年)に建てたものです
円空仏(えんくうぶつ)
円空は美濃の国(岐阜県)の僧で元和の頃生まれた。仏像をとおして不幸な人々を救おうと生涯12万体の仏像を残すことを祈願し、 南は近畿地方から北は北海道まで津々浦々まで歩き、黒浜、江ヶ崎村にも立ち寄り仏像を刻み一夜の礼としておいていったもので、 その彫刻は一刀彫の荒々しいもので素朴で親しみやすいにこやかなお顔である。江ヶ崎には21体残っておりそのうちの18体が矢島家に伝わっています。 いずれも蓮田市の指定文化財となっています。
花井家の鰐口(わにぐち)
久伊豆神社の森の中の路地をでたところの道路を背にしている家が花井家で当家には県下でも有名金石文に数えられる鰐口があります。鰐口とは、神社や寺院の前に吊り下げられ参拝者が網をふり鳴らす大きな鈴のことです。鰐口は径27cm程の小さなものですが正和3年(1326年)の銘があり古いもので足利尊氏が活躍していた頃のものです。蓮田市の指定工芸品になっています。 なお、花井家は江戸時代に元荒川の河川敷が将軍家のお鷹場になっていた頃の鳥見役をつとめた家柄で当時の関係資料を保存しています。 再び神社の境内にもどり鳥居の外に出て、十字路を進行方向真っすぐに進み100mのところの左側に少し入って「七福せんべい」の工場があります。休んだあと、道を真っすぐ360m進むと台地のはずれに、「富士浅間神社」の石神の建つ塚がある.他にも馬頭観音(ばとうかんのん)、小御嶽石尊大権現(こおんたけせきそんだいごんげん)の石神が塚の笹にうもれそうに建っている坂を下ると田んぼにでます。田んぼに立つと対岸の恩恵寺が手にとるようにせまってくる。黒浜沼の排水路,新堀を渡り十字路を左折し400m程のところを左折して江ヶ崎の台地に引き返すと少し広めの道に出る(神社前の道と一緒になる)右に折れると蓮田園の前を通り道がY字になるので左に行きます。正面に「セブンイレブンたにしや」の店があり、お店の左に「たにし不動,円空仏,江ヶ崎城跡」の看板が建っています。看板のある路地を入ると「たにし不動」が祭られています。
たにし不動尊
この変った名の不動尊のいわれははっきりしていないが、土地の人々のはなしなどから、次のような話しを聞くことができまとめてみました。
*「幸手市にもこの変わった名の不動尊があり、次のようなことが伝えられています.「安政のころ小林善平なる者が眼病になり苦しんでいました.。ある夜、成田不動尊が夢枕にたち越後の菅谷不動尊の信心を勧めるので,さっそく越後におもむきお参りしたところたちまち眼病が治ったので感激した善平は名主らの協力をえて菅谷不動と成田不動の二つの堂を建立したという。それ以来眼病平癒の不動尊おして近在ばかりでなく遠方からも信者がくるようになった。不動尊の絵馬が奉納されました.火炎のなかにたにしが二つ並んでいる図柄で、この螺のような丈夫な眼をお授けくださいとの願いを象徴したものでした。その後「たにし不動」の名で信仰されました。 たにし不動を信心する人は当時の農村の蛋白源であったたにしを一切口にしなかった時代の神頼みであったかをしる話です。 たにし不動尊の入り口にいぼとり地蔵尊も祭られています。石川家が、この地を支配してきた村おさとして村の人々のまよいや不安を取り除くために気遣いをされていたことを知ることができる資料ではないでしょうか。 たにし不動の裏手が江ヶ崎城跡になります。現在は住宅地として開発されています。お店の右の路地を入って十字路のところが館のお堀にかかる二の門にあたるところです。道を左にとり坂を下ったところが江戸時代から明治の初めに高札場があったところになります。十字路を右手に曲がると保福寺に行きます。
江ヶ崎城跡
築城は鎌倉時代、武蔵野国に当時武蔵七党といって七つの大きな武士団がおり、その一つ野与党と名乗る武士団が埼玉郡つまり県東部に住み互いに協力しあい村々をおさめていた。野与党の本拠地ははっきりしていないが白岡であろうと言われています。江ヶ崎城はこのあたりでは規模の大きなもので昭和39年10月5日埼玉県指定史跡になっています。『文献・記録などはないが伝承では、「野与党所属の鬼窪尾張守繁政の居館、その先祖は鬼窪六郎定綱であるという」鬼窪氏の系譜は明らかではないが、正平7年(1352年)足利尊氏が弟直義追討のため関東へ下向した際、高麗、渋江氏などと加わった鬼窪弾正左衛門尉、同左近将監の名が見えるが、江ヶ崎城の鬼窪氏とも関係があるという』(埼玉県城館跡より) 昭和33年発掘調査(学習院大学)では鎌倉末期の陶器、曲げ物など出土。城域は6~7ヘクタール、館跡は2ヘクタールで二重、一部三重の土塁に囲まれ外側に堀をめぐらしていた。現存するのは土塁の一部と堀の一部で瑞穂団地と石川多蔵氏の間に残っています。 城跡をたずねたあと広い道にでて右方向に北へ350mのところに保福寺の入口の標識がたっています。
保福寺
新編武蔵風土記稿に、禅宗曹洞派、上州館林善長寺の末洞谷山と称え、開山は章山周文、天文2年(1533年)寂す本尊正観音を安ず、鐘楼、鐘は宝暦年間に造られたと記され、第二次世界大戦中軍に提供。その後鋳造されました。 山門の前に江ヶ崎村にあったと思われる庚申塔が五基並んで建てられている。庫裏の通用門に道元禅師のことば「杓底一残水、汲流千億人」と、参道の年輪をへた老杉の並木は印象深かった。本堂は度々の火災で焼失、昔のおもかげはなく最近の建築である保福寺をあとにして参道の途中で右に曲がり、墓地脇のじゃり道を行きすぐに右にすすむと駐車場に突き当たるのでここを左折、150mほど進み右折し歩道のない道路を約250m進むと信号機のある5差路交差点に出るのど、直角に左折すると左手に蓮田松韻高校が見えてきます。その先が黒浜公園がありますので一休みしましょう。 休んだあと蓮田松韻高等学校と公園の間の道に入って行きます。東埼玉病院は関係者以外立ち入り禁止になっているので、道なりに進み変則交差点を右折します。 そのまま進み最初の十字路を左折すると最初にバスを降りて歩いた道にでます。やがて病院入口前のバス停があります。
兵見塚古墳(壊されて現存しない)
黒浜公園の北角地にかって兵見塚と言われる古墳が存在したが、昭和19年国立療養所埼玉病院(現東埼玉病院)が建設されたとき取り壊された。 古墳の大きさは推定では円墳で、径30~35m、高さ4~5mといわれ、中規模の大きさで、古墳の頂上には小さな観音の石仏があったという。 戦争中のこと陸軍の兵士の手で病院建設の用土に使用されたが埋蔵物等については記録その他残っていない。
*兵見塚についての伝承として、戦国の世、岩槻城防衛のための見張りがおかれたところから、土地の人々が兵見塚と称えたといわれている。また、一説には黒浜地区に100ヘクタールを越す森がありました(戦争中に伐採される)。森の中に岩槻城主太田三楽斉につかえた、忍者集団をたばねる元家老の山本某なるものが住し、岩槻城との間の交信(のろし台か)をしていた場所とも言われている。いずれにしても室町時代から戦国時代に武士たちによって利用され、その名が伝えられたものと考えられます。 付近には、十三塚、まがり塚、東光院塚などの名が残されている。