はすだ歴史探訪
桜ヶ丘、雅楽谷をめぐり黒浜館跡をたずねて
[ふるさと歴史探訪 / 中里忠博著]より
- コース:蓮田駅東口~荒川橋~すみがま坂~黒浜貝塚(黒浜式土器)(御殿場山)~御林~桜ケ岡~薬師堂~黒浜八景(*)~黒浜館(堀之内)~黒浜の地蔵堂~蓮田駅
- 距離:6.8km
- 所要時間:4時間
- 地図:
今日は、黒浜地区の探訪パート(2)として黒浜北部に足を運びたい。蓮田駅の東口から市道1号線にでて荒川橋を渡って行くことにしましょう。
荒川橋(アラカワバシ)
荒川橋は明治の頃にはなくて、東北本線が開通した後人々は鉄橋の渡り板を利用して黒浜と蓮田地区を往来していたが、やがて利用者が多くなるにしたがい 大正になって杭を打ち板を渡した仮橋(カリバシ)が作られ畑のなかに小道もでき元荒川を渡れるようになり便利になったが大八車(だいはちぐるま)などは渡れなかった。 昭和6年に宿十字路から仮橋までの道路、現在の1号線が作られ,仮橋もようやく幅1.8mになったが欄干もなく風の強いときなどは渡れない橋であったが、 その後昭和26年6月に永久橋(土橋)として完成し往来出来るようになりました。老朽化と車時代を迎えて昭和40年代に幅員を広げ鉄筋コンクリート橋に変りました。
すみがま坂
荒川橋を渡って行くとやがて坂道になります。この坂すみがま坂と言います。伝承ではこの地にむかし荒川の砂鉄をとり、
それを溶かして鉄を造るたたらありそこでつかった炭を焼く窯があったことからと言われています.何時の時代かはさだかではないがおそらく室町時代に黒浜館が
あったことから推察するにその頃と考えられます。現在の椿山4丁目あたりに今は台地の崖は削土されてその形跡はありませんが「たたら跡」が点在してありました。
市役所西の雑木林の中を捜すと鉱滓(こうさい、製鉄のかす)を見つけることができるかと思います。
黒浜貝塚
すみがま坂の左のすみがま屋敷と言われた吉澤家の裏山に黒浜貝塚があります。黒浜貝塚というのは縄文時代前記から中期にかけてのたくさんの 地点貝塚があってそれらを総称して黒浜貝塚といってます。いずれもハイガイ〔今は死滅していない〕などを主体とする鹹水産(かんすいさん)の貝塚です。 中期のものにシジミ等を主とする淡水産(たんすいさん)の貝塚もあります。東北自動車道建設のため昭和45年に記録保持のため発掘が行われました
黒浜式土器
縄文時代前期に位置づけられる形の土器で黒浜地内に点在する地点貝塚から出土した土器で、蓮田市関山から出土の関山武士器よりややおそい時期の土器だそうです。この頃から住居内の炉に土器を埋めこむようになったそうです
●「おはやし」の地名は、あたり一帯が大きな森で江戸時代の初め将軍家のご用林のち藩の御用林となっていたときの呼称で明治になってからは国有林となり官林山(かんりんやま)といわれていました。官林山と言われた地域は明治の初め頃,御林,桜ケ岡、黒浜西中学校、黒浜北小学校付近一帯、黒浜中学校付近、日の出団地、東埼玉病院,黒浜公園,蓮田高等学校付近および今の積水化学工業等のある工場地域にまたがる広範な地域でした。官林山はその後、明治時代中期から民間に払い下げとなり、原市や岩槻の豪商や豪農たちの手に渡り、少しづつ開発され第二次世界大戦でそのすがたを消しました。
前記官林山と言われた地域で最後まで開発の手がつかないでいた地域、つまり現在の工業地域となっている地域で、ここには大きな松林があったのですが戦争中に軍用地として買い上げられ、松林は軍用として伐採され松の木の根も松根油(しょうこんゆ)(航空機用燃料)を採るために掘り起こされました。終戦後開拓団が入植して耕地化されました。開拓地の中に道路がつくられ、道路のへりに平和のシンボルである桜の木を植えたことから桜ケ岡の名が付けられました。
工業地域の中の広い通りを北東方面に進むと信号があり黒浜公園の前にでますので休憩をしましょう.休憩をとらない人はセンコーの資材センターと日通配送センターの間の道を右折して下さい。休んだ人は公園のフェンスのへりの砂利道を入っていきましょう。日通の角の道と東光電気桜ケ岡寮の後ろで合流します坂を下るように住宅地を歩いていくとやがて雅楽谷(うたや)の入江のへりにある汀線(みぎわせん)の小道です。そのまま進むと黒浜保育園のわきを通ってやがて、県道蓮田杉戸線にでます。県道にでて右に曲がり信号を超え黒浜小学校の先の信号で右に130mのところの右に薬師堂があります。
薬師堂
新義真言宗戸が崎村吉祥院末東光山と号し、大変古い寺でしたが明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏教を排斥し寺などをこわす、明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊)によりそれまでの寺をこわして小さな堂をたて薬師像を祭りました。当時は大きな寺の敷地が三反(3000hm)もあり眼病に霊験あらたかな薬師様として近郷にも知られていたそうです。いつのころかお城の殿様もわざわざお参りにこられた程であったという。昭和のはじめ頃まで薬師様の縁日には大変な人で夜などはお堂から堀の内までの道のへりに灯籠も立ち並ぶほどの賑わいだったとのことです。 寺の土地は学校の一部になり、寺の境内にあった松の大木も昭和30年代まで学校のすみにありましたが今は枯れ黒浜八景にうたわれたようすを知ることはできません。
黒浜八景
度々お話してきた黒浜八景についてお話します.先にもお話したように、黒浜の地は台地と侵食谷とが複雑に入り組んだ地域で江戸期の頃は水あり山ありの小丘陵地帯であり, 古くから風光明媚(フウコウメイビ)な地として人々に知られていました.真浄寺の第九世の僧、慈雲禅師は高学の僧で文芸特に歌道にすぐれ風流を好み江戸と行き来をしながら文人墨客との 交流が多く、この黒浜の地を近江八景になぞらえて、黒浜八景として世に紹介しました。以来名称の地として知られるようになったということです。
- 一景
法連山の晩鐘 法連山とは真浄寺であり朝暮の鐘の音は門外の桜花をながめる里人の帰り道を忘れさせ、その姿は一幅の水墨画をおもわせる景色であった。
- 二景
荒川の藻舟 春や夏の日,農夫が肥料にするため、静かな荒川の水面に舟をうかべて藻を刈る姿はなんともいえないのどかな風景であった。
- 三景
稲荷山の晴嵐 稲荷社は高台に建っており眼下に田園が開け、遠くには富士山や浅間山がながめられ緑の風が吹き渡るようすはなんと素晴らしいながめである。(現在稲荷山の地は特定できず藤の木、もしくは宿浦あたりかと考えられる)
- 四景
御林の暮雪 御林とは当時の御用林のあった場所で巨松が繁り、遠く夕日に映える景色や旭に輝く景色はそのときどきに変化し美しいながめである。(地名から推察すると市役所から積水化学の工場あたりになるが、当時は未開地でありおそらく現在の黒浜中学校の前あたりと考えられる。明治期に日の出官林といわれ当時も御用林であり真浄寺の裏手にあり近くである。)
- 五景
雅楽谷の落雁 奥深い入江に農作業の終えた晩秋のころ雁がむれをなしてやってくるそのなき声や雁のとぶすがた、水辺にいこう水鳥たちのようす。東埼玉病院とセキスイハイムとの間の地でいまは埋め立てられているがおもかげを残している。
- 六景
薬師寺の秋月 黒浜館の北には入江があり、対岸の台地に建つ薬師寺の老松に秋の名月がかかり、こうこうとさえる美しさ、また水面にうつる秋の月はたとえようもない美しさである。
- 七景
朝日島の名照 この島は湖水の岸につきでた半島状のところで、朝日に登るとき湖水にこうこうと映る景色はたとえようもなく美しいながめであった(弁天社のあるあたりと言われている)
- 八景
溜堤(タメヅツミ)の風景 江戸時代の初め頃湖水の中に堤を築き黒浜の新井地区と長崎地区をむすんだ、湖水は上沼(ウワヌマ)と下沼(シモヌマ)に分かれた。堤に立ってながめる景色は風光明媚であり、夏の夜の納涼の場所となり四季おりおりの美しさを見せるところでした。
参考:近江八景とは 三井晩鐘、右山秋月、堅田落雁,粟津晴嵐、矢橋歸帆、比良暮雪、唐崎夜雨、瀬田夕照
薬師堂をあとにして、少し道が荒れているが黒浜館への古道を行きたい。薬師堂から右に曲がらずに坂を降りてゆくと、100m程で左に曲がります。この低い道は昔の入江の中を横切るようになっています。昭和10年代に県道になっている道路が作られるまでの古道で、学校や村役場に用事のときの重要な道路でした。目の前の森が黒浜館のあった場所です。坂道を登りましょう。丁字路に突き当たりましたら左に進むと黒浜館跡の看板が立っています。