はすだ歴史探訪
黒浜の丘陵地と古代の入江をたずねて
[ふるさと歴史探訪 / 中里忠博著]より
- コース:蓮田駅東口~橋場跡~奥東京湾~御大典道路~黒浜沼と排水工事~新堀~諏訪社~長崎村~真浄寺(竜宮仏)~庚申塔と信仰~久伊豆神社~竹内神社~ふじのき~蓮田駅
- 距離:8km
- 所要時間:4時間
- 地図:
蓮田駅の東口の「ふるさと歩道」の看板のところの路地を東に入るとやがて国道122号線にでます。そこを横切ると市道1号線にでます。 安全をたしかめ左折し鉄道路線と合わさるところで右に曲がると元荒川のさくら堤にでられます。右に行き宮前橋を渡り、橋のたもとを畑のなかの小道にはいり野道を しばらく進むと高速道路につきあたるので元荒川に架かる橋の下を通りぬけ川土手(もしくは平行した歩道道路)を進み川島橋のたもとにでるようにします。
奥東京湾(おくとうきょうわん)
宮前橋(みやまえばし)を渡ってから元荒川の沿岸の低地を歩いてきたが、この低地部分は5~6000年前までは奥東京湾の海底であったところです。その後海退がすすみ沼沢地となり400年前頃、江戸に幕府が開かれて河川の整備、干拓が行われてから田や畑が開かれ耕地となった地域で、今のような立派な耕地になったのは度重なる河川改修工事や排水路の工事によって改良に改良をおこなったことになります。 台地の裾を汀線(みぎわせん)といいます。波打ち際だったところですが今日はこの汀線を念頭において歩いてみましょう。黒浜地区が複雑に入江の入り組んだ地であることがよく分ると思います。 道路はやがて笹山地区を左にみて広い通りになります。
御大典道路(ごたいてんどうろ)
この広い道路は昭和天皇の即位の大礼を記念して作られた道路で、黒浜地区伊豆島地区の生活道路の改良と元荒川の氾濫から田畑を守る目的で、 昭和3年に着工3年の歳月の後完成しました、当時の工事としては大工事であったようです。この堤防は明治23年同43年の関東地方をおそった大洪水では決壊し黒浜 、白岡町、岩槻市に大きな被害をもたらしました。伊豆島地区に行く途中に記念碑が建っていますが不況のおりで粗末なものです。
諏訪社(すわしゃ)
この諏訪社は、長崎地区を開発した。増田善右衛門直吉氏により生まれ故郷の諏訪大社(長野県諏訪市)より勧請(かんじょう)されました。以来長崎地区の鎮守として守られてきました.祭神は建御名方大神(大国)主命(たけみなかづちのみこと(おおくにぬしのみこと))の次子で武勇にすぐれ国ゆずりを拒み敗れ、信濃の諏訪に退き天照大神の命を奉じた)農業の神として崇拝されその御神体は 鎌(かま)だといわれています。現在の社は焼失したため昭和50年に再建されたものです。
長崎村
長崎村は「新編武蔵風土記稿」に「古へ黒浜の地なりしを何頃にや隣村江ヶ崎村の民、開墾して一村となせりと言う.正保の改めにはこの村を記さず、元禄の改めには黒浜村の枝郷長崎村とあれば,全く別村となりしは元禄後のことなり今も村内皆耕地にして民家20余りは黒浜村に住り」と記されており元禄時代の開発で人々が住み集落がつくられたのは今から300年くらい前のことであると考えられます。
小休憩の後、公民館の後ろの道を西に少し坂を下ると石橋があり下を流れている川が新堀で黒浜沼につながっているのが見えます。この築道(つきみち)を溜堤といって江戸時代の中頃には、すでにつくられていたようです。沼地の中の浅い部分を埋め立てて久里浜村と長崎村」とをつなぎさらに江ヶ崎に続いたようです。江戸期には粕壁道と言っていたようです。築道で分けられたため沼は上沼と下沼に分かれたようです. 溜堤は黒浜八景の地の一つで近郷にも名の知れた名所で、今はそのおもかげもうすれてきましたがここに立つとのどかな田園風景や森は見る人の心にふるさとを思いださせるものがあるようです。 橋をすぎて少しして田の終わるところ台地の裾を入ると弁天社がある。五月には藤の花が見ごろとなる。この地は黒浜八景にいわれる朝日島である。新緑の季節、秋の紅葉が美しく釣人や家族づれの散策もみられます。ここで疲れた方は弁天社の後の駐車場のある方の道をたどるとバス停にでられる。一休みした後、もとの道に引き返し右に折れ笹山地区の後の森をみながらたどりコンクリート資材置き場のところを左に曲がると、黒浜幼稚園の建物のかげにかくれて真浄寺の屋根がみえてきます。
真浄寺
禅宗曹洞派 群馬県邑楽郡富豪村善長寺末法連山と号し,永正8年(1511年)の草創で開山は章山周文で開基は群馬県館林城主赤井山城主家堅の弟で赤井但馬守家範である。当時この地で館林城とかかわりのあったことが伺われます。本尊は釈迦でその体内に15cm程の同像があることから腹籠竜宮仏(はらごもりりゅうぐうぶつ)といわれています。
竜宮仏(黒浜沼の伝説)
今から450年前の天文年間中、この地域に疫病が流行し村の人々は毎日神仏に祈り、仕事も手につかない状態で恐れおののいていました。寺の和尚さんもこれは困ったことだ、何とか村人を救うことができないかと御仏に香をたき、毎日寝ずに祈り続けていました。ある日、疲れて和尚さんがうたた寝をしていると、御仏が枕元にたち、「西方の沼の中で御仏が寒がっている。一日も早くお助けして、供養をおこたらなければ疫病はなくならないだろう」と告げて立ち去りました。さっそく夜の開けるのを待って、信心ぶかい若者に夕べの話をして,西方の沼に網をうたせたが、網をいくらうっても御仏は現われませんでした。和尚さんは「そんなことはない」と言って、これは村の衆が半信半疑でいるためだと思い、みんなでお祈りをしようではないかと、沼のほとりに祭壇をつくり一心にお祈りしました。陽も傾きかけ、ぼつぼつあきらめかけたとき、若者の網に仏様のお像がかかりました。それをみて村人は手に手を取り合い喜び、さっそく仏様をきれいな水で洗って差し上げました。沼のほとりに堂を建てて、盛大な法要をおこないました。すると村中に流行していた疫病も、うそのようい治っていきました。このときから西の沼を堂沼と呼ぶようになったと言うことです。水の中から現われたということで誰いうとなく竜宮仏と言うようになりました。(堂沼の場所ははっきりしないが黒浜南小学校の校庭あたりといわれています)
その後、しばらくは村も平和な日々が続き村人たちは畑仕事やタキギ集めに精を出していました。何年もたって仏様のことを忘れかけたとき、高熱にうかされるという病気がおこりました。またたく間に病気は村中に広がっていきました。誰いうとなく何かの祟りではないかと言いふらす者がありました。村役の者で相談して、旅の年おいた修験者にたのみました。修験者はさっそく祭壇をつくり祈祷しました。「仏様が寒さで困っていらっしゃる」。と、いうお告げですさっそく探し出して手厚くお祭しなさいと告げて立ち去っていきました。村人は昔堂沼からあがった仏様ではないかと言うことで和尚さんにこの話をしました。和尚さんはしばらく考えてから、小さな仏様で寒いといわれるのだから、もっと大きな仏様を作ってお腹の中にお納めしてはどうかということで、大きな仏様の中に納めました。村中に流行していた悪病も治ったと言うことです。
真浄寺の宝物
天正16年の豊臣秀吉が小田原城攻めの際の制札を所蔵、雪舟の達磨の掛軸(真筆といわれる)の2点を所蔵している。
真浄寺を辞してみちを右にとると県道蓮田杉戸線の丁字路にでます。左に曲がってバス停に向かうと道路の反対側に大きな庚申塔が建っています。
先にある信号の方に向かって行き、信号の斜めおくの森の中に黒浜村の鎮守久伊豆神社があります。後ろの森が切られてまわりの整備がややみだれているが、かっては黒浜地区の総鎮守でもあり、現在の社殿は蓮田市文化財に指定されています。奥の本殿の流造りの社殿は立派なもので一見の価値があります。
久伊豆神社
当社は室町時代の享禄年間(1528年頃)に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後江戸時代の慶長の16年(1611年)勝利正(すぐれとしまさ)
(元上総国真里谷城主<千葉県木更津市>三河守重信の子孫、小田原城落城とともに身をかくし、当地に修験者となり居を構えた)が願主となり再興したと伝えられる。
宝暦2年(1752年)には神祇管領ト部兼雄より久伊豆大明神の弊帛を受ける。明治4年(1871年)に菅原神社、稲荷社など二社を合祀する。明治6年に黒浜村村社となる。
ふじのき
道が二又に分かれるあたりを「ふじのき」と言います。「ふじのき」は古いことばで台地から低地へ向かっての傾斜地という意味です。 今は台地から見る景色は高速道路や住宅地になってあまりよいとは言えませんが景色のすばらしい場所でした。黒浜八景のひとつ「いなりやま」 の地ではなかろうかというひともいます。昔のおもかげはありませんが秋の夕日はみごとなものです。夕日の美しいところに市道1号線の「炭窯坂」からのながめがあります 。パート(2)で詳しくお話しましょう。