はすだ観光協会

はすだ歴史探訪

天王様・長松寺と下閏戸・関山貝塚めぐり

>[ふるさと歴史探訪 / 中里忠博著]より

  • コース:蓮田駅西口~須賀神社~不動様~長松寺(ちょうしょうじ)~養牛寺~伊弥彦神社~十三塚~関山貝塚(関山式土器)~御前橋~蓮田駅
  • 距離:6.5km
  • 所要時間:3時間
  • 地図:

ぬすっと宮、第六天神社をへて満蔵寺の探勝

蓮田駅の西口駅前にたって、左側のパチンコ店の横を入って突き当たりを右に進み、すぐに左に方向をかえ、吉田屋分店の角を右に曲がり、 駐車場の角を左に曲がり真っ直ぐ進むと蓮田村の鎮守須賀神社、一般には蓮田の天王様で知られている神社です。途中左側の路地を入ったところにお不動様のお堂があります。

須賀神社

祭神は素佐之男命(すさのおのみこと)(いざなぎのみこと、いざなみのみことの子で天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟、凶暴で天の岩屋戸(いわや)の変を 起こし根の国に流され、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を切って天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)をえて天照大神(あまてらすおおみかみ)に奉献、新羅に渡り 、船材の樹木を持ち帰り、植林のみちを教えたといわれる)祭日は、4月15日と7月14日、7月は俗に天王様の山車(だし)の引かれる日です。この社は江戸時代の終わり頃、 この地に鎮座した市内では比較的に新しい神社です。

不動様

五大明王の一つで、大日如来が一切の悪魔、煩悩を降伏するために変化して忿怒(ふんぬ)の相を現したもので色黒く眼を怒らし、左眼を細く閉じ、 右の上唇を咬み、右手に降魔の剣をもち、左手に縛の縄を持ち常に大火焔の中におり石の上に座する。家内安全、大願成就などのご利益があるとされる。不動様の縁日は 毎月28日でこの日には近くのお年寄りが集まりお祈りをしています。 須賀神社をあとにして、理髪店の前から左折して材木店の角で国道122号を渡って、最初の小さな交差点を左に進みふとん屋の先の交差点を右折すると、 長松寺の前にでる。神社からおよそ450mです。市街地のなかですが樹木が多く静かな通りです

長松寺

「禅宗曹洞派 蓮田市黒浜真浄寺の末、開山は仲山良信文禄4年(1595年)寂す」と新編武蔵風土記稿に書かれている。 この地に建立されて400年の歴史をもつ寺である。当寺には蓮田地区の軍人で亡くなられた方々の忠霊塔が建ち、また、座禅会がもよおされ多くの人々が参加している。 鉄筋コンクリート造りの二階建ての近代的な御堂です。 長松寺をあとにして山門をでて左に曲がり十字路で左折、蓮田中央小学校の正門前を行くと、T字路につきあたるので左折し、 30mほどで右折すると300mで大宮栗橋線にでます。信号を渡ると国道122号線のバイパスで畑の中をのんびりと歩かれるのもよい。 日ざしの強い季節でしたら大宮栗橋線を少し北に行き、新今宮橋を渡りセキスイ化学の社宅の門を入り裏門にぬけると、元荒川のさくら堤のみどりの木陰を 今宮橋まで歩くことができる。今宮橋交差点を清龍酒造会社の方に曲がりカーブした道を進むと、床屋さんの角にでます。信号を渡り斜め右にある小道に入り 、小さな十字路を左に曲がるとそこは江戸時代の中頃まで人々が往復していた古道です。今の国道122号線は江戸時代後期に造られた道で、岩槻道といっていました。 100m程で養牛寺の西側山門前にでます。最近改築された御堂や庫裏と墓地があかるく静かな中に建っています。

養牛寺

禅宗曹洞派 蓮田市閏戸秀源寺の末弥陀山と号す、「新編武蔵風土記稿」に開山は鼎願嶽周(ていがんがくしゅう)なり宝永5年10月10日寂す。当山はこの僧の隠栖(いんせい)の所として開かれた地で、本尊如意輪観音(にょいりんかんのん)は恵心の作、坐像にて長5寸と記され、「武蔵国郡村誌」には、開山は祐岩(ゆうがん)天正8年庚辰8月28日寂す、風土記の宝永5年10月10日寂すとも記す。井沼村薬照院の項と、高虫村天照寺の項を合わせ考えると、養牛寺の創建年代は次のように考えられます。秀源寺の鼎岩嶽周は若い頃に高虫村に天照寺を開基し、その後井沼村の薬照院を開き寛永5年10月10日に亡くなったと考えられ、養牛寺の開山は、後の世に書かれた「武蔵国郡村誌」に書かれている祐岩和尚の開山で天正8年(1580年)8月28日に亡くなったようです。 養牛寺の先の交差点をすぎて170m程すると蓮田市浄水場の入口にでます。入口の角に下閏戸村の伊弥彦神社が森の中に建っています。

伊弥彦神社

祭神は素佐之男命です。神社や森は大変よく手入れがゆきとどき静かなたたずまいに心が落ち着きます。考えてみるとなぜ氷川社を名乗らないのか不思議です。明治の神仏合祀令で、中閏戸の久伊豆神社に合祀されたが、閏戸村では維持管理にお金が掛かることや、各地区が神社の祭りを主張したりしてまとまりが付かず、数年後また元に戻した。(伝)下閏戸村の開拓者・岩崎氏の郷里が越後ということで、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請して、一族の繁栄と安穏を祈願したという。 伊弥彦神社付近は大小の古墳があったといわれています。最近まで残っていたものでは浄水場付近の十三塚古墳、その北側に小墳(南北朝時代1336年の南朝の年号の板碑出土)がありました。土地の古老の人の話では伊弥彦神社も小墳の上に建てられているということでした。 神社をあとにして、道をもとに引き返し左への小道をたどると見沼代用水のへりのヘルシーロードにでます。みどりの田んぼのむこうに遠く見る伊奈町の森や住宅の ながめと新幹線の橋脚の立ち並ぶすがたはとてもさわやかです。右に行くと小さな庚申塔を祭った祠がさくらの木のもとのあり、土地の人の手が行き届き掃除がされています 。祠の中を覗くと「甲子塚」と書かれています。さくらの根元には「馬頭観音」と刻んだ石仏もあります。

十三塚

十三塚古墳ともいい小さな13基の塚が一列に並んでいる遺跡で、ほぼ全国に分布し民間信仰の対象で、起源には戦死者を葬ったとか、大将一人と従者十二人、姫や妃と侍女十二人を葬ったという伝説が多いが、『貝原益軒はその書に「父母の死んだ後3日よりはじめて13年忌に至る13度の法事に一つずつ塚を築く風習があり、十三仏になぞらえたものという説に賛成しています。塚中には遺物を残さないのが特徴とされる」平凡社・世界大百科事典より』蓮田市内では黒浜公園付近にもあったと言われています。 見沼ヘルシーロードを川の流れに沿って歩くと、高砂橋から浄水場下、反対側の伊奈町の下谷地区、蓮田中学校下と過ぎ、左側に崖が見られます 。関山橋の手前のこの崖が関山式土器の出土した関山貝塚の場所です。

関山貝塚

蓮田市関山1丁目325番地、綾瀬川の左岸にあって台地の西南緑の場所にあり遺跡は標高15m、水面との比較高さ約8mの台地にありました。現在は部分的に削土され貝などの遺物は少なくなりました。6つの地点貝塚からなってお関東地方における縄文時代前期関山式土器の標準遺跡で,ハイガイを主とする貝塚です。 昭和46年埼玉県教育委員会の手で調査が行われ三軒の住居跡と多くの土器が出土し、出土土器時の8点は埼玉県指定考古資料となっております。 関山武土器前期縄文式土器(6.7千年前頃の縄文時代の人々が生活用具,汁器などに使用)の形式の土器で考古学界で昭和2年より大宮台地の貝塚を中心に縄文文化の 編年学的研究(数千年続いた縄文時代の中での時期を特定する研究)を行う標準土器にしたもので、その後関山式土器が細分化されるにおよんで、蓮田式、 黒浜式、花積下層式などの形式に分類され関山式の名称が確立しました。

*関山式土器、黒浜式土器については蓮田市立郷土資料館(蓮田市根金1489)或は埼玉県立博物館(大宮市高鼻4丁目219)に展示されています。 関山貝塚の崖を登り林のなかをさがすと貝を見つけることができます。さて、貝塚についてはここで、切り上げて歩きましょう。関山橋からヘルシーロードは川の反対側にうつりますので交通に注意してわたりましょう。大宮栗橋線を立体交差でくぐりぬけると見沼公園にでます。緑の樹木が枝をのばした下を行くとやがて青少年ホームの側にでます。亀甲橋、ここで疲れた人は左折し坂道をのぼり道が二又に分かれますので左に道をとり吉田屋酒店の角までゆき、右に曲がると蓮田駅の西口に行かれます。ヘルシーロードを進むと御前橋の墓地の側をとおり橋のたもとに出ます。

御前橋

御前橋は上蓮田村の前の方に位置することからその名がおこったと言われますが、今一つは見沼代用水が掘られたあと享保16年(1731年)に船で年貢米を運ぶようになり、この地に米を積み出す桟橋が作られたことからお米橋とよばれたのではとも言われますが、亀甲橋は以前船溜まりとおぼしき入江が有り、上蓮田村の港が御前橋か亀甲橋かは特定することはむずかしく、はっきりとはわかりません。 御前橋をあとにして、蓮田駅に向かって戻ることにします。なだらかな坂をのぼっていくと蓮田中学校どおりとの交差点でこの付近は蓮田市内で標高の一番高い ところと言われ海抜はやく16mぐらいあります。信号を渡ったあたりから蓮田駅の西口広場が見えてきます。

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