はすだ歴史探訪
氷川神社と小室観音、綾瀬ジョギングコース
- コース:蓮田駅西口~綾瀬川~綾瀬川改修記念碑~小室の氷川神社(智恵天神)~小室観音~蓮田駅
- 距離:7.5km
- 所要時間:4時間
- 地図:
今日は蓮田市と伊奈町との境を綾瀬川をはさみ歩いてみたい。蓮田駅の西口広場を左へ県道蓮田鴻巣線を御前橋の市街地を進みます。 見沼代用水に架かる御前橋を渡った右側に綾瀬川の改修記念碑が建っています。
綾瀬川
綾瀬川は昔は荒川の本流であり秩父山系の水を集め流れていたがいつのころか綾瀬川といわれ、いま一方の流れを荒川と称したようです。 アヤの語源については学者の間でもはっきりしていないようです。古いことばで,アヤ「漢,綾、文、安邪」とかき古い中国の国の一つで(魏志)(三国)では阿羅(アラ)・伽羅(カラ)といい、 早期渡来人をアヤ人と言い、以来唐土をカラと言い韓の地をアヤと言ったようです。またアヤはアヤシで神異の義に転じて、神、瑞、嘉、霊,奇などの意味で、怪(あやし)にも通じ、 綾瀬川の言葉について、ある者は水量がたえず増減し、流れを変えることからアヤシの川といい、別の学者は神の威と解し、綾瀬川のさざなみからあやなす流れの意と解したり学者の方々も 綾瀬川の解釈についてははっきりした説がないようです。武蔵国の郡を分ける境川として西を足立郡、東を埼玉郡に分けた川です。 寛永4年(1627年)徳川幕府は、新田を開発する目的で綾瀬川と荒川の分岐する蓮田市高虫に堤を築き綾瀬川の水源をたちました。 ついで寛永6年には荒川の水を入間川に流れるようにしました。綾瀬川は水量が減ってところどころに深い沼地を残していましたが浅瀬は湿地となり次第に陸化していきました。 幕府は延宝8年(1680年)綾瀬川流域の開発を決定し、ここにようやく水田に開墾が始まり米作りが始まったのです。しかし、綾瀬川の小さな沼地はそのまま 川筋として残ったために川は蛇行して綾瀬九十九曲がりと言われるほどでした。大雨のさいには周辺の台地の水が流れこみ、 そのうえ荒川の水があふれて堤を越えて流入したりして普段でも水はけの悪い、綾瀬川は沼地状となったりして収穫がほとんど皆無という年も度々起こり 耕地の改良が農民の悲願となっていったのです。
綾瀬川改修記念碑
綾瀬の耕地は排水が悪く2年に1度は不作になるといわれる難場でした。最近では明治23年、43年の大洪水は特に被害が大きく、 収穫どころか堤防は破壊され水田も流されるという状況だったということです。その後関係する村々で協議を重ね、昭和初期から昭和9年までを費やし川筋を直線化し用排水も できるように改良して裏作も作れるようにすると同時に、それまで農耕馬も入れなかった田を牛馬の入れる田んぼにしました。 さらに、農業の近代化を進めるために耕地の基盤整備がいままた進められているのです。 綾瀬川の整備がおわり昭和52年一級河川として国の管理となりました。
記念碑をみて、綾瀬川の探求に出掛けましょう。見沼代用水の御前橋と綾瀬に架かる小厩橋の間の道を通って 綾瀬団地の中を横断します。道路に面した家の後ろを綾瀬川は 流れています。道は綾瀬西児童公園のわきをとおり石川眼科のまえにでます。信号で県道大宮栗橋線を渡ります。伊奈町の栄団地の中に進み右折して綾瀬川に平行した道路を行きます。 住宅地の排水路にそった通りは県道上尾蓮田線にでますので、そこを横断します。綾瀬川の土手には異な町でつくったジョギング道路がありますのでそこを歩きましょう。 このあたりでは見沼代用水と綾瀬川は平行して流れていますので見沼代用水が一段高いところを流れているのがよく分ります。やがて伊奈町の下谷(シモヤ)地区です。 下谷を過ぎると綾瀬川はだんだんと見沼代用水から離れます。見沼代用水と綾瀬川の間の田んぼが綾瀬川の西側の田より一段低いことに気がつかれると思います。 この場所は沼地として残されていた小室沼の一部と言われています。見沼代用水が享保13年(1728年)に作られて用水がひかれるまでの間およそ50年間この沼の水を田に引き入れ て用水としていました。いまもそのころの堰(いせき)があったことを物語る地名として、蓮田市の関山とか綾瀬川に大関橋、大村関橋などの名で残っています。 歩きながら橋の名に気をつけてみましょう。 東北新幹線の下を通りぬけて100m程の所で伊奈町の台地につづく道がありますので足を伸ばして行きましょう。 まっすぐ600m進むと伊奈氏や川越藩主の柳沢吉保や松平信綱などから庇護をうけた氷川社があります。
氷川神社
鎌倉時代の宝治2年(1248年)の勧請といわれ初めのころは須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る男体社と稲田姫命(いなだひめのみこと)を祀る女体社とあったが、 何時の時代か合祀されたと言うことです。南北時代の応安3年(1370年)に社殿が再築された記録が残り、江戸時代には小室八か村の総鎮守となりました。明治6年には村社 、明治43年には小室村の神社39社をあつめて合祀しました。昭和19年郷社に昇格しました。現在の社殿は老朽化が目立つようになり昭和52年に改築されました。 江戸時代には、小室城主伊奈氏三代、大多喜城主大河内氏、川越城主松平氏、柳沢氏等により社殿の改修や社領を安堵された。境内には知恵伊豆と言われた、 川越藩主松平伊豆守信綱が信仰したと言われる天神社があり,「智恵天神」(ちえてんじん)として信仰を集めました。 神社の参道は奥深く老杉の並木があり、境内は広く他にもたくさんの神社が祀られています。 藤棚のある公園、社の森の一部を児童公園や駐車場とした憩いの場となっています。
氷川社の中の道を、東側(蓮田側)にでて左にゆるい坂を下ると右角に伊奈町の町立図書館があります。 角を右に曲がり左に入る道が二本あります.二本目のややせまい道を進むと道幅が広くなったり狭くなったりして歩きやすい通りです。およそ700mで大通りにでると 小室観音の大きな看板が建っています。正面の道の奥に立派な観音堂があります。
小室観音
天台宗清光寺持ちの観音堂で通称小室観音といわれ、元禄15年(1702年)に定められた足立33ケ所観音霊場の第5番寺です。本尊は聖観音菩薩で木造、体内に三体の仏像と札2枚を納めているそうです。寺伝では聖徳太子の作といわれていますがもっと新しい物とも言われています。現在のお堂は昭和46年に再建されたものです。境内には子育て地蔵の立派な像があり静かな寺です。なお、埼玉県指定史跡小貝戸貝塚は寺の後ろになりますので見てみたいかたは近くの農家でお聞きするとよいでしょう。
小室観音を後に、看板のあった広い通りまで戻ります。通りを左に曲がって真っ直ぐに進むと300mで田んぼにでます 。田んぼの中を300m程行くと綾瀬川を渡る小貝戸橋です。渡ると蓮田市になります。そのまま進んで行くと見沼代用水の樹木橋にでますので渡ってヘルシーロードに出ます。 疲れた方は100m程川上に戻ると中閏戸の久伊豆神社の公園がありゆっくり休めます。 あとは、川下に向かって歩くと前に通った道ですから楽しく歩けると思います田んぼの中の道も舗装されていたりして歩きやすいので、 春ごろにはせりやよもぎなども芽をだしたりしています。草摘みをしたり、道端の雑草などみながら歩くのもよいでしょう。歩くときには何かちょっとした目的をもって歩く、 自分のすきな草花や虫をさがすなどしながら歩くと疲れずに歩けるものです。