桜ヶ丘、雅楽谷をめぐり黒浜館跡をたずねて

[ふるさと歴史探訪 / 中里忠博著]より

<本文>今日は、黒浜地区の探訪パート(2)として黒浜北部に足を運びたい。蓮田駅の東口から市道1号線にでて荒川橋を渡って行くことにしましょう。

すみがま坂
  荒川橋を渡って行くとやがて坂道になります。この坂すみがま坂と言います。伝承ではこの地にむかし荒川の砂鉄をとり、それを溶かして鉄を造るたたらありそこでつかった炭を焼く窯があったことからと言われています.何時の時代かはさだかではないがおそらく室町時代に黒浜館があったことから推察するにその頃と考えられます。現在の椿山4丁目あたりに今は台地の崖は削土されてその形跡はありませんが「たたら跡」が点在してありました。市役所西の雑木林の中を捜すと鉱滓(こうさい、製鉄のかす)を見つけることができるかと思います。

黒浜式土器
  縄文時代前期に位置づけられる形の土器で黒浜地内に点在する地点貝塚から出土した土器で、蓮田市関山から出土の関山武士器よりややおそい時期の土器だそうです。この頃から住居内の炉に土器を埋めこむようになったそうです

●「おはやし」の地名は、あたり一帯が大きな森で江戸時代の初め将軍家のご用林のち藩の御用林となっていたときの呼称で明治になってからは国有林となり官林山(かんりんやま)といわれていました。官林山と言われた地域は明治の初め頃,御林,桜ケ岡、黒浜西中学校、黒浜北小学校付近一帯、黒浜中学校付近、日の出団地、東埼玉病院,黒浜公園,蓮田高等学校付近および今の積水化学工業等のある工場地域にまたがる広範な地域でした。官林山はその後、明治時代中期から民間に払い下げとなり、原市や岩槻の豪商や豪農たちの手に渡り、少しづつ開発され第二次世界大戦でそのすがたを消しました。

前記官林山と言われた地域で最後まで開発の手がつかないでいた地域、つまり現在の工業地域となっている地域で、ここには大きな松林があったのですが戦争中に軍用地として買い上げられ、松林は軍用として伐採され松の木の根も松根油(しょうこんゆ)(航空機用燃料)を採るために掘り起こされました。終戦後開拓団が入植して耕地化されました。開拓地の中に道路がつくられ、道路のへりに平和のシンボルである桜の木を植えたことから桜ケ岡の名が付けられました。

 工業地域の中の広い通りを北東方面に進むと信号があり黒浜公園の前にでますので休憩をしましょう.休憩をとらない人はセンコーの資材センターと日通配送センターの間の道を右折して下さい。休んだ人は公園のフェンスのへりの砂利道を入っていきましょう。日通の角の道と東光電気桜ケ岡寮の後ろで合流します坂を下るように住宅地を歩いていくとやがて雅楽谷(うたや)の入江のへりにある汀線(みぎわせん)の小道です。そのまま進むと黒浜保育園のわきを通ってやがて、県道蓮田杉戸線にでます。県道にでて右に曲がり信号を超え黒浜小学校の先の信号で右に130mのところの右に薬師堂があります。

参考:近江八景とは 三井晩鐘、右山秋月、堅田落雁,粟津晴嵐、矢橋歸帆、比良暮雪、唐崎夜雨、瀬田夕照

 薬師堂をあとにして、少し道が荒れているが黒浜館への古道を行きたい。薬師堂から右に曲がらずに坂を降りてゆくと、100m程で左に曲がります。この低い道は昔の入江の中を横切るようになっています。昭和10年代に県道になっている道路が作られるまでの古道で、学校や村役場に用事のときの重要な道路でした。目の前の森が黒浜館のあった場所です。坂道を登りましょう。丁字路に突き当たりましたら左に進むと黒浜館跡の看板が立っています。

 館の看板をみて、今いる小道をそのまま進んで三つめの十字路まで進んだら右に曲がると100m程で広い通りにでます。広い通りを右に曲がったところにゲートボール場があり、道のへりに地蔵堂があります。小さなお堂ですが中のお地蔵様は大きく、お顔も見ていて心のなごむようなよいお顔をしています。大変りっぱなお地蔵様です。まわりに木でも繁っているとすばらしいと思います。裏手には、これまた小さいが立派な造りのお堂で小屋組みなどにも肘木を使うなど本格的な造りで、堂内には小さいながら立派な不動尊が祭られています。いずれも宮大工の手になるものとおもわれ信仰の深さを感じました。   広い通りを信号のある方に進む。スーパーまるやの交差点を左折し、下り坂を進み高速道路下をくぐりさらに直進し元荒川にかかる宮前橋をわたる。さらに直進し国道122号バイパス交差点をすぎ、旧122号を斜め右方向に進むと駅の東口「はすだ見どころ道しるべ」の看板のところにでられます


   
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