見沼代用水(みぬまだいようすい)

見沼代用水は、江戸 時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のた めに、武蔵国に普請したかんがい農業用水です。
名前の通り、かんがい用溜池であ った見沼溜井の代替用水路でした。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川よ り取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区 に至ります。特に蓮田境では『柴山の伏越(しばやまのふせごし)』(白岡町境)と『瓦葺の掛渡井(かわらぶきのかけどい)』(上尾市境)という川との立体交差の難工事が2箇所あり、『伏越』は元荒川の河床下を木製樋管を2本埋設して水を通しましたが、昭和3年にコンクリート製となりました。また、『掛渡井』は綾瀬川の上を幅14メートル、長さ50メートルの木造の樋を渡したものでしたが、綾瀬川洪水最高水位の考慮や老朽化・修築の負担から、昭和35年に伏越となりました。また、見沼代用水は江戸への舟運路として、鉄道開通までは重要な物資輸送ルートとして使用されていましたが、鉄道開通と共に徐々に衰退していきました。 この見沼代用水開削の経緯と詳細は次のとおりです。
徳川吉宗が8代将軍として始めた享保の改革により、幕府の財政建て直しのための増収策として、新田開発が本格化しました。武蔵国の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在しましたが、ここを新田として開拓することが決められました。
これらの溜井の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになりました。この事業を吉宗から命じられた、勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永は、周囲を調査し、利根川や荒川の治水も考慮して埼玉郡(さきたまぐん)から足立郡を抜ける約80kmの幹水路に加え、高沼用水路などの分流路も多数開削することで、流域周囲の沼地を干拓した後の水源とすることを計画しました。
大規模な工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5か月後の1728年2月で、3月には利根川から水を流し込み用水路の利用が始まっています。期間だけでなく、いろいろな面で当時の工事水準の高さを垣間見ることができます。例えば、利根川から取水されることとなりましたが、その場所は現在の行田市にあった下中条村の地でした。この付近の利根川の流れは水深が年間を通して安定していたほか、享保以前100年間の洪水時でも堤の決壊したことがないなど、好条件がそろった場所であったからです。現在の見沼代用水の取水口も江戸時代とほぼ同地点の利根大堰ですから、当時の土木水準の高さを感じることができます。また、建設のための測量は、利根川からの上流側と見沼溜井から流れ出ていた芝川の下流側からの二手に分かれて進められましたが、水盛りとよばれた水準測量により行われ、30間(約55m)につき3寸(約9cm)の傾斜、すなわち1/600の勾配が付くように正確に進められたそうです。
その精度は高く、利根川側と芝川側からの測量が出会った地点でわずかに約6cm(2寸)のずれしかなかったと伝わっています。さらに、水路となる場所は、既存の水田を避けて出来るだけ未開の場所を選択し、減水を防ぐため比較的地盤の固い場所を選んで決められています。

<

黒浜貝塚 元荒川の桜 芥川龍之介の撰文碑 黒浜沼
寅子石 久伊豆神社 円空仏 閏戸の式三番
山ノ神沼 見沼代用水 綾瀬貝塚 蓮田市文化財展示館
関山貝塚 高虫氷川神社彫刻 伊豆島の大蛇 備前堤

ページタイトル

   
     トップページに戻る