久伊豆神社めぐり


「蓮田の久伊豆神社巡り@...4社」

◆コース :蓮田駅東口〜宮前橋〜元荒川〜元荒川河川敷公園〜西城沼公園〜南新宿久伊豆神社@〜宇都宮線陸橋〜黒浜公園〜江ヶ崎久伊豆神社A〜黒浜沼〜弁天社〜黒浜の庚申塔〜黒浜久伊豆神社B〜川島橋〜元荒川堤防〜宮前橋〜川島久伊豆神社C〜蓮田駅東口

◆距  離:約12km

●久伊豆神社について(共通)
蓮田市内には7つの久伊豆神社があります。
今日の第1回目は川島・黒浜・江ヶ崎・西新宿の4社で、残り3社は別の日に2回目として訪ねます。
私たちの故郷・蓮田を、この久伊豆神社の歴史と一緒に巡ってみましょう。

久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に熊谷から吉川まで分布し、現在57社が現存しています。
関東地区では 千葉県の香取神社系と埼玉県の氷川神社系、そして久喜の鷲宮神社系と並ぶ1祭祀圏をなしています。そして、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市(きさい)党の勢力範囲とほぼ一致していることから、何らかの影響力があったこともうかがえます。(新編武蔵風土記には最大87社の記録あり)
久伊豆神社の祭神は、大巳貴命=おおなむちのみこと(大国主命=おおくにぬしのみこと)です。
 
●元荒川
荒川は秩父山地からの水を集めて大河となって蓮田台地、黒浜台地の下を流れていました。
文字通り、流路も定まらない大変な荒れた川だったそうです。 
蓮田台地の西側を綾瀬川が、黒浜台地の西側を元荒川が流れ、東側ににっかわ(にっかわ西)(下流を古隅田川)が流れていましたが、寛永6年(1629年)それまでの荒川の流れを変えて入間川に繋ぎました。(現在の荒川の流路)そこで蓮田を流れていた荒川を元の荒川という意味で、元荒川とその名を変えて呼ぶようになりました。
その後、元荒川の流域は少しずつ開拓がすすみ現在のようなかたちにととのってきました。しかし満水時の荒川の水位より低い入江に残された水を排水しなければ田を開き米を作ることはできませんので、黒浜地区の人々は排水路作ったり、沼地のまわりの田に沼の土を掘り上げるなどして、水との戦いに大変な苦労をしてきました。(黒浜の台地よりも元荒川の水面の方が高い)

●西城沼公園と旧家斎藤家
城沼も黒浜沼と同じで、縄文時代・奥東京湾の海退時に取り残された「海跡湖」の名残で、一帯を整備した公園です。
左の坂道の上にあるのは、蓮田でも数少ない現存する旧家・斎藤家の長屋門で、江戸時代の元禄期に建てられた、全体として軒の低い造りで「室町づくり」というそうです。
また、さいたま栗橋線の歩道橋を渡った交差点角にあるのは天満神社で城村の鎮守様です。

●南新宿・久伊豆神社@
久伊豆神社は江戸期には南新宿村の両村の鎮守でしたが何時の頃からか南新宿一村の持ちとなったようです。明治初期の本、「武蔵国郡村誌」には南新宿の村社と書かれています。祭神は大貴巳命(おおむなちのみこと)で、祭日は2月初午の日と9月9日です。当村には稲荷社が東の方にありますが、この社も祭日は同じ日になっています。数年前、樹齢数百年の御神木に落雷があり焼失し、若い杉の木を植えて育てています。

●雅楽谷(ウタヤ)
黒浜沼に続く入江の奥に東埼玉病院と黒浜公園があります。この一帯に面したところを雅楽谷といいます。
大昔に水辺の台地に集落があったといわれ、ここから縄文式土器の破片がたくさん出てきます。
ここを黒浜の人々は、昔の人たちが作物の収穫のあとや猟のあと、神々に感謝して宴を開いたところだと言い伝えてきました。いつのころかこの土地のことを雅楽谷と言うようになったといいます。

●江ヶ崎・久伊豆神社A 
7つの久伊豆神社のうち、江ケ崎久伊豆神社は市内で"宮司"が在住する唯一の神社です。ここはかつて南学院という寺院もあったところで、18体の円空仏が残されています。
祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)で社伝によれば室町時代の嘉吉3年(1443年)この地に鎮座したといわれています。現在も大きな森に囲まれていますが、近くに宮地などのことばが残っていることから昔はかなり広い境内を持っていたことがわかります。社は立派とはいえない(その後火事で焼けてしまい新築した)が拝殿の中には立派な絵馬があります。また境内には筆塚が建っています。

*円空仏(えんくうぶつ)
美濃の国(岐阜県)の僧で元和の頃生まれた円空は、仏像をとおして不幸な人々を救おうと生涯12万体の仏像を残すことを祈願し、近畿地方から北海道まで津々浦々まで歩き、黒浜・江ヶ崎村にも立ち寄り一夜の礼として仏像を刻みおいていったもので、その彫刻は一刀彫の荒々しいもので素朴で親しみやすいにこやかなお顔です。江ヶ崎には21体残っておりそのうちの18体が矢島家に伝わっています。いずれも蓮田市の指定文化財となっています。

*江ヶ崎城址
鎌倉時代、当時の武蔵野国には武蔵七党という7つの大きな武士団がいて、そのうちの野与党が周辺の村々を治めていたと伝承されています。江ヶ崎城はこのあたりでは規模の大きなもので、館跡は2重・3重の土塁に囲まれ外側に濠をめぐらし、昭和39年に県指定史跡になっています。
現存するのは、瑞穂団地と個人宅の間に土塁と堀の一部が散見されますが、ちょっと見には判りません。
セブンイレブンの駐車場わきに、城跡碑が建っています。

●黒浜沼
黒浜沼は大昔の入江のなごりで、海水がひいた時(海退)に内陸に閉じ込められてできた海跡湖で、今は上沼と下沼の二つに分かれました。付近の湿地には絶滅危惧種を含むたくさんの湿生植物と昆虫類、120種もの鳥類など生息密度が高く、人為の影響が少ない地域で湖沼特有の生態系を維持しています。 NPO法人「黒浜沼の自然を守る会」の方々の日頃の精力的な奉仕活動が功を奏し、学校授業にも取り入れられています。
このことから平成21年度には緑のトラスト保全第11号地に指定されて、整備が進められています。
なお、黒浜沼や周辺の田んぼから流れ出た排水は、元荒川でなく数百年前から地元住民の苦労の末の新堀を経て白岡市の隼人堀川へ流下しています。

●黒浜八景
このように黒浜の地は、奥東京湾が深く入り込み台地と谷とが複雑に入り組んだ地域で、江戸時代のはじめは水(沼)あり山(台地)ありの小丘陵地帯で、古くから風光明媚な地として人びとに知られていました。
黒浜南小近くの真浄寺に、第9世の慈雲禅師というお坊さんは、学問に勝れ特に唄を詠むことがじょうずで、その頃は江戸にも聞こえた歌人だったといいます。江戸に住む歌人や絵師などとも行き来をしていたといいます。この黒浜の地の美しさを近江八景になぞらえ、黒浜八景として世に紹介しました。それ以来名勝の地として黒浜の地は人びとに知られるようになったといいます。

●黒浜の庚申塔
ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、庚申搭または庚申塚についてご案内します。
もとは中国・道教の教えに由来する庚申信仰によるものです。
人間の身体の中には三尸(さんし)という虫がいて、60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の寝静まった夜、身体から出てきて天帝にその人の悪行を報告するため、天帝がその人を早死にさせてしまうと言われていました。そこで、庚申の日は夜通し起きていてこの三尸が身体から出られないようにする、という集まりを「庚申講」「更新待ち」といいました。 平安時代に盛んになり、娯楽の乏しかった時代にだんだんに村々に広がって、昭和の初めまで続いた郷土信仰のヒトツです。
 きっと、近所の人々が集う口実となった飲み会のような位置づけだったのでしょうか。
村はずれなどの道端に道祖神と一緒に置かれ、村に疫病や災厄を防ぐ守り神と村辻の道しるべという性格をあわせもっていたようです。
彫られているのは、申は千支で猿に例えられるので、「見ざる・言わざる・聞かざる」の3猿を彫り、同様の理由で神道では猿田彦神が彫られたものが多くあります。
猿田彦神は道しるべの道祖神と供に信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくことにもなり、これが仏教では、庚申の本尊である青面金剛が彫られていることもあり、これも神仏習合のヒトツの例です。

●黒浜久伊豆神社B
当社は室町時代の享禄年間(1528年頃)に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後江戸時代の慶長の16年(1611年)勝利正(すぐれとしまさ)(元上総国真里谷城主<千葉県木更津市>三河守重信の子孫、小田原城落城とともに身をかくし、当地に修験者となり居を構えた)が願主となり再興したと伝えられます。
宝暦2年(1752年)には神祇管領ト部兼雄より久伊豆大明神の弊帛を受け、明治4年(1871年)に菅原神社、稲荷社など二社を合祀し、明治6年に黒浜村村社となりました。
黒浜久伊豆神社の本殿は小規模ながらも本殿は権現造りをなし、本殿に施された妻飾・斗拱・装飾彫刻等は、江戸時代後期の神社建築様式の良く残しています。本殿彫刻は蓮田市指定文化財になっています。
権現造は、日本の神社建築様式の1つで、石の間造(いしのまづくり)とも呼ばれます。本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴で、発祥は静岡県の久能山東照宮(1617年建立の社殿)といわれています。

●川島橋(橋場跡)
昔は元荒川を利用した舟運が盛んで、橋のたもとの家々は問屋場として江戸時代から明治の終わりまで元荒川を登り下りする船の荷あげや荷おろし(河岸場といいます)の他に旅人の乗り降りもあり、居酒屋や茶屋が店を開いて、たいそう賑わっていたそうです。
 
●奥東京湾(オクトウキョウワン)
今日は行きも帰りも元荒川の沿岸の堤防や低地を歩いてきましたが、この低地部分は5〜6000年前までは奥東京湾の海底であったところです。その後海退がすすみ沼沢地となり400年前頃、江戸に幕府が開かれて河川の整備、干拓が行われてから田や畑が開かれ耕地となった地域で、今のような立派な耕地になったのは度重なる河川改修工事や排水路の工事によって改良に改良をおこなったことになります。
この台地の裾は汀線(ミギワセン)と言って波打ち際だったところで、特に黒浜地区は複雑に入江の入り組んだ地であることが想像できると思います。

●川島・久伊豆神社C                                              
江戸時代後期(1800年代)に創立された昔の川島村の鎮守で、地域の人々から農業の安全と豊作を祈る神として信仰を集めていました。祭神は大己貴命(おおむなちみこと)で、諸説ある由来の中でも、近郊の人々は「ぬすっと宮」と呼ぶ人が多いといいます。その昔、川上の方から追われてきた義賊がこの神社の森に逃げ込んだところ、慈悲深いここの神様がかくまって追手から逃がしてやったそうです。それ以来誰とはなしにこう言われるようになったと言います。

●蓮田駅
お疲れ様でした。
普段聞いたことや見慣れたことも、こうしてあらためて勉強してみるとたくさんの知らなかったことや興味が湧いてきませんか。いい機会ですから、ぜひご自身でもお近くから歩いてみませんか。
そして、私たちの故郷・蓮田の歴史と自然を大切にして、後世に語り継いでいきましょう。

コース地図


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「蓮田の久伊豆神社巡りA...3社」

◆コース :蓮田パルシー〜山の神沼〜稲荷神社・芥川龍之介記念碑〜根金神社〜井沼・久伊豆神社D〜農業者トレーニングセンター(休憩)〜見沼代用水〜駒崎・久伊豆神社E〜星久院〜見沼代用水〜吾庵橋〜閏戸・久伊豆神社F〜蓮田パルシー

◆距  離:約12.5km

●久伊豆神社について(共通)
蓮田市内には7つの久伊豆神社があります。
第1回目の川島・黒浜・江ヶ崎・西新宿の4社を歩きましたので、第2回目は残りの井沼・駒崎・閏戸の3社を訪ねます。
私たちの故郷・蓮田を、この久伊豆神社の歴史と一緒に巡ってみましょう。
なお、前回ご参加いただいた方々は、今日ご案内する内容が一部重複しますことをご了承ください。

久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に越ヶ谷から熊谷まで分布し、江戸時代の最盛期には83社を数え、今でも57社が現存しています。
関東地区では 千葉県の香取神社系と埼玉県の氷川神社系、そして久喜の鷲宮神社系と並ぶ1祭祀圏をなしています。そして、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市(きさい)党の勢力範囲とほぼ一致していることから、何らかの影響力があったこともうかがえます。
久伊豆神社の祭神は、いずれも大巳貴命=おおなむちのみこと(大国主命=おおくにぬしのみこと)です。

●山の神沼
蓮田市北部、元荒川の堤防後背地に広がる水田地帯と住宅地の間に位置する山ノ神沼は、面積約3.8ヘクタール、貯水量約5万7千トンを貯え、水田のかんがい用水として使われています。また、住宅地に近いにも関わらず、緑豊かで野鳥の数多く生息する貴重な水辺空間を呈し、魚釣り場としても利用されています。
このように山ノ神沼は農業用水利施設としての機能を果たしているだけでなく、古くから地域住民の生活の中に根付いている身近な水辺環境です。

この山ノ神沼のあたりは鎌倉時代の頃は荒川の本流が流れていたと考えられています。したがって根金地区は荒川の中洲であったとも考えられます。当時の荒川は高虫の方から流れて井沼神社の西側にぶつかり神社の北を流れ清水沼、つまり今の122号バイパスや福山通運のあたりから住宅地をへて山ノ神沼のほうに流れていました。山の神沼は当時にはもう一つの沼がありおそらく上沼(かみぬま)と下沼(しもぬま)といっていたと考えられます。上沼の上に同じ発音の神をあて、そのころ大山と言われる大きな森があり、山ノ神と唱えられたものと言われています。山ノ神沼は古い荒川の道筋が残って沼になっている河跡湖(かせきこ)なのです。

●芥川龍之介の撰文碑(稲荷神社の鳥居横)
平野村根金に生まれた広庵、関口平太郎氏の事蹟を称えた碑で、芥川龍之介による撰文が刻まれています。
関口平太郎氏は明治17年12月10日根金村に生まれ目を患い按摩となりましたが、子供のころから人の難儀を見過ごせないという心のやさしい人でした。岩槻で按摩の仕事をしていましたが、その頃明治38年東北地方が大飢饉に襲われ、子供たちがノートや筆など学用品のなく勉強に困っていることを知り贈って上げました。その後もっと世の中の人々の役に立ちたい、その為には東京にでようと東京で按摩をはじめ、いろいろ困難の末、お金を蓄え大正5年、平野小学校の子供達で困っているこのために就学奨励資金として100円を贈り、また岩槻小学校の子たちのために50円を贈りました。当時の村の人々はこの行為にたいし翌年、根金神社の境内に関口平太郎氏の顕彰碑を建て永くその功績を後の人々に伝えました。(碑文は芥川龍之介に村人の某が使えており、頼んで書いて貰ったものと言われています。

●根金神社
ここは当初は、久伊豆神社であったとも伝えられています。
根金村は江戸時代には閏戸村の一部であったり、貝塚村に所属したり、根金新田村が開発され、その後二村が  合併するなど一村として独立するまで歴史的に複雑なかたちをとり現在にいたっています。そのような事情でそれぞれ小集落の神々が一つの神殿に合祀されています。江戸時代のころの十羅刹社、愛宕社等が祭られています。他に地域内の小社も祭られています。また、境内には、(先ほど芥川記念碑でご案内した)根金村に生まれた関口平太郎氏の顕彰碑が建てられています。

●井沼・久伊豆神社D
井沼神社の祭神は当地区にあった大己貴命(おおなむちのみこと)を祭る、以前は東と西にあった二社の久伊豆社を合祀したもので、境内には素佐之男命(すさのおのみこと)を祭る須賀社と市柿島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭る弁天社などの小社もあります。神域は井沼館の城域の北で元荒川に臨む場所にあります。

●井沼館跡(堀の内)
神社入口の鳥居のあるところから左側の佐藤氏の屋敷地及び神社地にまたがる一帯が井沼館のあったところです。築造年代は室町時代といわれ、伝承では菖蒲城主佐々木氏綱の家臣佐藤内蔵助(さとうくらのすけ)の屋敷といわれています。佐藤氏は代々内蔵助を名のり江戸期には名主をつとめ江戸期の古文書(こもんじょ)など所蔵しています。当館は空堀の一部や土塁の一部、弁天沼に続く水堀の一部を残しており発掘調査が期待されています。神社の参道脇の家が佐藤氏の子孫と言われている家です。なお、この館跡付近からは縄文時代の住居跡など発掘調査により発見されており複合遺跡となっています。
 蓮田には、このような館跡が江ヶ崎・黒浜・閏戸・蓮田・辻谷にも見受けられます。

●見沼代用水
行田市の利根大関から取水して,県東部から南部にかけた水田17000ヘクタールを灌漑する関東平野最大の農業用水で、蓮田市を南北に突っ切って流れています。
この用水は、八代将軍徳川吉宗のころ、幕府が井沢弥惣平為永(いざわやそうへいためなが)に命じて、それまであった見沼溜井を干拓させ、これに代わる用水源として利根川より大用水路をつくったもので見沼に代わる用水ということから命名されました。 見沼溜井(みぬまためい)は寛永6年伊奈忠治により八丁堤の上流の沼で1200ヘクタールの大溜池でした。下流5000ヘクタールを灌漑していたが用水の不足に悩まされ、上流では排水不良となり、この問題を解決すると共に溜井を干拓して新田をつくる目的で,総延長84kmに及ぶ大工事を為永は享保12年(1727年)10月から13年2月までのたった5ヶ月間で完成しました。
蓮田市周辺では見沼代用水の完成により、下蓮田の八幡溜、閏戸の西にあった小室沼の干拓、駒崎、上平野周辺の沼地の開発が行われました。

●見沼通船と河岸場(かしば)跡
見沼代用水が江戸時代の享保12年(1728年)に開削されて当初から舟路に利用する意図があり,同16年に通船堀が築造され江戸への舟路として利用されました。初めは行田から神田川筋・永代橋まであったが柴山の伏越(フセコシ)と併設の掛渡井が廃止となり伏越までとなりました。見沼通船の使命は御迴米(年貢米)の輸送にありましたが、その他、下り荷(江戸向)には沿岸各地で生産された穀物、野菜,薪炭が輸送され,登り荷は江戸積み込みの肥料,塩、魚類、乾物、荒物、雑貨などがありました。幕府は通船を保護するため会所を六か所設け、上平野はその一つでした。会所は要所におかれ通船積荷の監視と料金の徴収をしました。初めの頃は河岸場は59箇所(蓮田に7箇所)ありましたが、嘉永6年(1853年)に15箇所あらためられ、蓮田関係は掛樋のある上瓦葺(下蓮田)と上平野となり、明治7年(1874年)には見沼通船株式会社が設立され、出張所が17箇所となり平野は残りました。通船は柴山で荷を積み替えて行田市下中条まで運び、また、星川を利用してさらに上流の熊谷まで荷を運んだが鉄道の開通により衰退し、昭和6年2月に廃業しました。

●駒崎・久伊豆神社E
駒崎村の鎮守で元禄4年(1691年)再建の棟札を蔵しています。祭神は大己貴命(おおむなちみこと)です。江戸期には星久院(しょうきゅういん)の神社でした。 駒崎の寺と神社をみると今は別れていますが元は一つところに隣合って建っていたことがわかります.江戸期には寺が神社を管理したり、逆に神社が寺を管理していたりという時代でした。今もその名残でお不動様はお坊さんも神主さんも係わっているようです。明治政府は明治元年(1868年)に宗教政策のひとつとして「神仏習合」を禁じ神道と仏教の分離を推進しました。この「神仏分離令」以来、寺と神社は別々になったのです。この駒崎の寺と神社を見るとよく分る例といえます。

●星久院(しょうきゅういん)
新義真言宗足立郡倉田村(桶川市)明星院の末、仏光山遍照寺と号します。本尊は弥陀、開山
は祐長文安3 年(1446年)で、江戸期に建てられた堂宇はことごとく火災にあう焼失したと言われ、当時をしるす古文書(こもんじょ)は残っていませんが、火災のとき持ち出したと言われる須弥檀(しゅみだん)と仏像は大きく立派なもので、残された仏像から観音堂もあり、当時の寺院が大伽藍や堂を持った寺であったことを知ることができます。

●吾庵橋(中閏戸)
*河岸場跡
見沼代用水が享保13年に開削され、幕府は3年後に用水のもう一つの目的である舟運事業を始めましたが、
用水沿いの要所に御廻米の積出のための河岸場(会所)を設けました。そのうちのひとつ、吾庵橋(中閏戸の河
岸場)の齋藤家が幕府からその運営を委託されていました。江戸から明治・大正にかけては、吾庵は村の出入口
 で人の往来が多く、たいへん栄えた所だと言います。

*道灌手植の松 ...(注)個人住宅内にありますのでご迷惑にならないようご注意ください。
吾庵橋の齋藤家には、嘗て太田道灌公が旅人の目印になるようにと手植えしたと伝えられている立派な松の木
があります(ただしこれは2代目。初代の松は昭和初期に枯れて伐採されました)。

●閏戸・久伊豆神社F
閏戸村は昔は一村であったが何時の頃か上閏戸、中閏戸、下閏戸村の三村に分かれその後また一村となったりしていて、それぞれの村に鎮守の森を持っていたようです。江戸期には各小字(こあざ)に寺があったりするなど、考えてみると江戸期には数人の旗本の地行地であったことと関係があるのではないでしょうか、中閏戸村には久伊豆社が東西の二社あり、共に古く騎西町の久伊豆社を勧請したものと言われています。

*大山道石碑
境内に「大山道」の石碑が二つに折れて無造作に置かれています。江戸時代は、庶民にまで広がっていた大山詣での道筋がすぐそばの見沼代用水を横切っていていた名残と思われます。村人たちが綾瀬川で身を清め、ここ吾庵橋から大山詣でや榛名詣でに旅立って行ったと言われています。
 
●蓮田パルシー: 解散
お疲れ様でした。
普段から聞いたり見慣れたことでも、こうしてあらためて勉強してみると、たくさんの知らなかったことや新たな疑問や興味が湧いてきませんか。いい機会ですから、ぜひご自身でもお近くから歩いてみませんか。
そして、私たちの故郷・蓮田の歴史と自然を大切にして、後世に語り継いでいきましょう。

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■久伊豆神社めぐり(はすだ観光協会主催)

平成25年は終了しました。次回は平成26年春に計画しています。お楽しみに!

久伊豆神社(こちらもご覧ください)

   
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