蓮田の地名発祥の地、蓮華院をたずねて

[ふるさと歴史探訪 / 中里忠博著]より

  • コース:蓮田駅東口〜八幡神社〜慶福寺〜蓮華院〜寅子石(とらこいし)〜辻谷〜瓦葺掛渡井(かわらぶきのかけどい)〜船運〜稲荷社〜八幡溜〜蓮田駅
  • 距離:6.5km
  • 所要時間:3時間30分
  • 地図:

<本文>蓮田駅の東口の「はすだ見どころ道しるべ」の看板を見て、きょうのコースの見当をつけて出発をしたい。東口の駅前通りを右に出て、蓮田交番前で左折、のくぼ通りを進み、三つ目の交差点を右に入り道なりにすすみ、蓮田南小学校のさ先を左折したところに、下蓮田の鎮守八幡神社が長い参道の奥に見えます。

  • 八幡神社
    八幡社の祭神は仁徳天皇を祭り、境内の木立は枯れたりして、昔のおもかげは失われ今は少なくなり、住宅がせまり、社殿も立派とはいえない。以前は広い神域と大樹に囲まれていました。明治の初め蓮田学校がこの地に産声をあげ、その後学校は同村内の慶福寺に移りました。蓮田学校は当時、「若宮学校」と言われていました。現在の蓮田南小学校です。 八幡社をあとにして交差点まで引き返し、県道、東門前蓮田線の信号を渡って、直進し、すぐのY字路を右に折れ、信号を直進し、住宅地を行くと右手に蓮田児童センター、左手に天神社があります。小さな社ではあるがよく清められ木立も美しくまとまった社です。 道を右に折れて、400mほど行くと、慶福寺の裏門にでます。慶福寺ではゆっくり休みながら話など聞きたいところです。
  • 慶福寺
    慶福寺は天台宗の寺で、入間郡古谷本郷「川越市」の灌頂院の末寺で、江戸時代に書かれた書物には、慶安年間(1650年頃)に創建されたと書かれているが、先頃、寺院の改修にあたって本堂を移転したおり、本堂の礎石の下から建武5年と刻まれた板碑が出土したことから、室町時代(1338年)足利尊氏が将軍になったときと一致する。その当時の文献などは度々の火災により残っていないが、由緒ある古刹であったことがうかがうことができます。本尊は三尊の弥陀を安置し、他に定朝の作といわれる地蔵尊があります。 寺の参道には、蓮田南小学校開校之地の石碑、下蓮田地区にあった四基の庚申塔が静かにたたずんでいます。住職の関口亮弘師に寺の縁起や蓮田の地名発祥といわれる蓮華院などについてお聞きするのもよい。 慶福寺を辞して、本堂南側の山門を出て、県道を横断(交通量が多いので注意)しそのまま坂道を10m程進み、右折したところに墓地があり、墓地の中ほどに蓮田の地名の発祥とされる二軒四方の堂が建っています。このお堂が蓮華院弥陀堂です。
  • 蓮華院
    蓮田市のパンフレットには蓮華院の説明のところに蓮田の地名の起こりは、古く天平時代であると言われている。聖武天皇は天平15年(743年)に諸国の郡邑里村を定撰するため、東国に義澄という高貴なお方を遣わされた。この義澄が当地の弥陀堂に立ち寄り一夜をあかし、翌朝目を覚ますと前方の沼田に生い茂っている美しい蓮の花にいたく心を打たれ、この弥陀堂に蓮華院弥陀堂という名を贈ったことから、この後「蓮田」と呼ぶようになったと伝えられている。 蓮田の地名は一説には「肥処(はしど)」肥えた土という意味で呼ばれ、これが訛って「蓮田」となったといわれています。また、この地は足立郡と埼玉郡との間を綾瀬川によって隔てられ、綾瀬川の乱流のころは広い大河で簡単には行き来することもできなかった。そのころ蓮田と上尾市瓦葺との間は川幅も狭く古来より川越、東松山、岩槻を結ぶ唯一の街道があったことが文献などに書かれています。豊臣秀吉の岩槻城攻めにもこの街道が利用されている(岩槻市史)ことからも、二つの台地を結ぶ渡渉地としての「橋処(はしど)」であったとも考えられます。 県道を背にして蓮田南中学校の校庭の脇をすすみ、校庭のはずれの十字路を左折し、200m先を右折し200mほどして寅子石が見えてきます。ガードレールの切れ目から道路を横断します。ここ辻谷地区の墓地がひっそりと道路のへりにあります。駐車場に寅子石の標示がされています。
  • 寅子石
     寅子石は延慶4年(1311年)唯願(ゆいがん)法師が、その師真仏法師(親鸞の直弟子)に対する報恩供養のために建立されました。青石塔婆の中でも名の知られたもののひとつです。昭和16年文部省より重要美術品として認定されている。昭和40年には、埼玉県指定考古資料の指定を受けています。県下で二番目に大きな板碑としても有名です。  ※「伝承」 むかし綾瀬川のほとりに開けた辻谷の里に長者が住んでいた。その長者にはそれはそれは美しい娘がおりました。名前を寅子といい、たいそうな器量よしで年頃になると近郷近在の若者からの縁談がひきもきらず、長者夫婦は娘の果報を喜んでいましたが、とうとう婿選びに毎日心をいためるようになりました。若者たちからはなんとか早くおよめさんにと、仕事も手につかず毎日のような催促です。そうしたある日、若者たちのところへ酒宴の招待状が届き、皆は今日こそ願いがかなうと喜んで出向きました。酒宴もたけなわとなったころ、若者たちに一皿ずつの膾(なます)がくばられました。若者たちは食べ終わっていよいよ婿殿の発表かと思い、口々に私こそ婿にと申し出た。長者は「皆さんに寅子を差し上げました」と、おかしなことをいいましたが、若者たちには何のことかわからず更にたずねると、「ただ今差し上げた膾が実は娘の寅子の肉でございます。寅子はいずれへ参ったらよいか迷い、先夜『せめてこの身なりとも皆様に等しく分けていただきたい、そして皆さんが稼業に精をだしてほしい』と書き置きを残して、自らあいはててしまったのです」と、涙ながらに語りました。若者たちは大いに驚き悔い悩みました。そこで若者たちは、寅子の冥福を祈りこの地に供養塔を建てたということです。  その後、毎年かかさず3月8日の命日には、今も辻谷地区の婦人たちが心をこめたご馳走をつくり供養をつづけております。長者の家といわれる子孫が今も辻谷地区に住んでおります。  寅子石をあとに西への道をたどると田園の中に広がる農村風景が辻谷地区です。
  • 辻谷
     辻谷は先にお話したように古くから交通の要地として栄え、室町期にはこの地には館があったことが語り継がれています。今は田畑の耕地整理によって館をとりまく森など無くなってしまったが、道路のへりに数本の欅(けやき)の大木がそびえている館跡といわれる旧家があります。昔をしのび想像をめぐらしながら歩くのもよいものです。小さな十字路にさしかかると角地に、江戸時代に建てられた道しるべが土に埋もれかかって二基たっています。古道は原市(上尾市)から岩槻、慈恩寺へとつながっていました。古道を東へたどると南中学校の北を通り慶福寺の山門前を通り、八幡神社から南消防署の前の道しるべにつらなっていることが考えられます。  道路はやや狭くなりカーブしながら坂を登ると、鉄道マニアの写真撮影のポイントで、休日にはマニアが多く集まる東北本線の踏切があります。そこを渡り線路沿いの坂を下ると三軒の農家がありますが、ここは江戸時代の船運の盛んなころ、水夫(かこ)の家が軒をならべていたところだそうです。足をすすめると、蓮田市と上尾市(瓦葺)との堺に位置する立会橋の上にでます。右手が瓦葺掛渡井の跡です。現在は伏越になって水門も作られ大きく変ったが大変景色のよいところで上尾市は記念公園になっています。
  • 瓦葺掛渡井(樋)
     見沼代用水が開削された享保13年(1728年)に綾瀬川(排水)と交差して用水を通水するために設けられた樋で木造でした。洪水時など綾瀬川の水位の上昇で度重なる修理、老朽化も著しく度々架けかえられてきました。明治になってレンガや鉄をつかって根本的改修が行われましたが、昭和35年までの掛樋は廃止され伏越の方法で作り変えられました。明治期の渡井の一部、樋を支えたレンガの台の遺構を残して付近一帯は記念公園にして保存され、釣り人やジョギングを楽しむ人たちの憩いの場として賑わっています。  立会橋を渡ると伏越から出てきた用水は西と東に分かれます。ここが西縁用水と東縁用水の分岐点になっています。船運で賑わっていた頃の茶屋や料亭のあったところです。
  • 船運
    綾瀬川の船による物資の輸送は江戸時代に入ってまもなく綾瀬川や荒川の河川改修とともに始まり、特にこの地においては原市(上尾市)が物資の集約地として発展するとともに盛んになり、見沼代用水が開削されたことにより船による輸送は大量に物や人を運ぶ時代をむかえました。下蓮田新田、辻谷地区は大変な賑わいをみせたのですが、明治期にはいって鉄道が開通し、鉄道にとって変わられるにおよんで急速に衰退し、昭和初期には仕事もなくなり、昭和6年に最後まで残っていた見沼通船会社も解散し、それまでの問屋場や荷揚げの人足小屋や水夫たちの小屋もなくなりさびれた農村へと変りました。 綾瀬川は江戸につながり、草加、越谷、岩槻、蓮田、原市を結び、見沼代用水は南は江戸、川口に、北は菖蒲、行田(熊谷)を結び、ここは物資の積み替えや人の乗継ぎで重要な役目を果たしていました。 一休みしたあと、見沼代用水にそって北へすすみ前橋を渡らずに車に気をつけて直進します。150mほど川辺の道路を進むと右手の奥にこんもりと繁った森があり農家が1〜2軒見えます。このあたりは蓮田館のあったところです。 森の南北には深く谷地が入り込み、西側は現在は田になっているが昔は綾瀬川の乱流で沼地状をなしており、守るに堅固な要害の地であったことがうかがわれます。道端に堀之内陣屋跡の碑があります。辻谷といい蓮田といい、古くから人の往来があり文化の進んだ村ではなかったでしょうか。そんなことを考えながら歩くと左手の土手下に新田地区の氏神である稲荷神社があります。 JR宇都宮線を渡り左折し、線路沿いをすすみ、下蓮田地下道の上を通り住宅街の間を進み、県道に沿って蓮田中央公民館前をいくと蓮田駅南口にでる。












































   
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