綾瀬貝塚・山ノ神沼、をたずねて

<本文>今日はみなさんを貝塚、根金方面に案内しましょう。今日のコースは少し遠くなりますので途中までバスを使いたい。帰りもバスを使ってもよいのではと考えています。   蓮田駅の西口から菖蒲町方面のバスに乗ります。北原の停留所で降ります。さあここから今日のコースは始まりです。バスを降りましたら、少しいま来た方にもどります。30m程で左に入る道がありますのでそこを進みますと122号バイパスに出ます。信号がありますので、信号を渡って反対側の歩道を左につまり北の方面に進みます。最初の右に入る路地があったところです。   

閏戸館「堀の内」
  館の築造年代は室町時代といわれ、伝承では菖蒲城主佐々木氏綱の家臣黒須平内五郎,同黒須八郎左衛門の屋敷跡、下って江戸期には伊奈備前守忠次の家臣富田吉右衛門の屋敷跡といわれているが祥らかではないです。当館は堀や土塁の一部が残り形を推測出来ます。当時の代表的館の遺構を図(省略)に示しましたので参考に考えて見ましょう。前に、前にお話した辻谷館、蓮田館や江ヶ崎館も同じ構えであったとも考えられます。黒浜館は裏の入江が水堀のなり形が不規則になっていたようですが、井沼館も黒浜館と大変よく似ています。前にお話した大字城の館はどれにもあてはまらないことに気付きます。もっと、いろいろな面から比較してみるとおもしろいですね。ご迷惑でなかったら土塁の様子などについてお聞きするのもよいと思います。

館跡を見て、まえの路地を進んで120m程行くと、突き当たりますので左に行きます。舗装された道はカーブして梨畑の角の小さな十字路を左に曲がります。曲がりくねった道をそのまま進みますと、左側に貝塚村の鎮守稲荷神社の鳥居が建っています。神社は貝塚の中心に建立されたとおもわれ、付近一帯が綾瀬貝塚のあるところです。

貝塚をあとにして100m程のよころで右に曲がり田んぼにでて水路にそった道を左に行くと広い通りと交差しています。交差点の角に貝塚第二土地改良の竣工碑がたっています。蓮田市内の広々とした耕地にはよく見掛ける石碑です。

耕地整備
蓮田市の低地は昔から沼地が多く少しづつ江戸時代の初め頃から開墾され米つくりが行われてきました。そのために不定形の田畑が多くその上用水や排水に苦しむ湿地帯でした。農業にも大変な労働が強いられたのでした。また、収穫も不安定であったため、大正時代の中頃、元荒川の河川改修や綾瀬川の改修が行われ続いて排水の確保、田畑の土地改良が進められ一応整ったのですが、農業の機械化、近代化をはかるためこのところ数年間大掛かりな土地改良が各地で行われたのです。江戸時代に開発が始まり実に400年の年月が費やされ、すばらしい良質の田にすることができたあかしとして,土地改良の記念碑は次の世代の人たちに受け継がれていくのだと思います。 田の中に真っすぐにのびた道を進むと左手に山ノ神沼が見えてきます。田んぼの中にあるので見落としがちなので「まこも」の生い茂っているところを注意して捜しましょう。

山ノ神沼
山ノ神沼のあたりは鎌倉時代の頃は荒川の本流が流れていたと考えられています。したがって根金地区は荒川の中洲であったとも考えられます。当時の荒川は高虫の方から流れて井沼神社の西側にぶつかり神社の北を流れ清水沼、つまり今の122号バイパスや福山通運のあたりから住宅地をへて山ノ神沼のほうに流れていました。山の神沼は当時にはもう一つの沼がありおそらく上沼(かみぬま)と下沼(しもぬま)といっていたと考えられます。上沼の上に同じ発音の神をあて、そのころ大山と言われる大きな森があり、山ノ神と唱えられたものと言われています。山ノ神沼は古い荒川の道筋が残って沼になっている河跡湖(かせきこ)なのです。

沼を見てから二つめの十字路を500m程行くとT字路になります。角に小さな祠があります。いろいろ市のパンフレットなどにある北向地蔵尊です。

北向地蔵
地蔵尊はもとは、阿弥陀如来で地蔵はその慈悲を表し間魔は忿怒を表したものとされ、地蔵を信仰すると十の福が授かるとされ昔は広く信仰されました。

*伝承では、お地蔵様はいつも北を向いていて寒いだろうと、言ってお爺さんがそっと南向きにしてあげましたが翌日もお参りに行くとまた北を向いておりました。何遍直してあげてももとどおりになっていました。この話を聞いた村人は不思議に思い、今まで以上にお地蔵様を大切にしてお線香やお供物を絶やさなかったということです。

 道を元に返し、大通りを左に10m行きすぐに右折します。約300mで丁字路になり右に曲がりすぐに再び丁字路になります。そこを左に曲がって再び右折しますと昔清水沼といわれた田んぼのへりをとおって県道上尾久喜線にでます。交通量が多いので気をつけて歩きましょう。歩道橋をわたります。歩道橋からは清水沼言われた場所が今は埋め立てられ平地となり国道122号線が通り工業地域になっていることがよく分ります。
 歩道橋の北側には今ミニ工業団地が造られていますが、ここは大正9年まで元荒川が流れていました。大正9年元荒川の大改修が行われ元荒川は北へ300mほど移動したのです。勿論そのころには県道上尾久喜線も造られてなくて、昭和7・8年になって工事が行われました。その時に清水沼も埋め立て工事が行われたということですが、清水沼は深いところで水深が8・9mもあって大変な工事だったそうです。それまで根金から井沼地区にある小学校や役場に用事のあるときなどは、清水沼の東南を大きく回り道をして行ったということです。
 歩道橋を渡ってそのまま南方向に向かって車に注意してしばらく歩きます。およそ250mのところの左側に万歩計を造っている山佐時計の標識がありますのでそこを曲がります。そこから450m程のところに蓮田市郷土資料館があります

閏戸館「堀の内
館の築造年代は室町時代といわれ、伝承では菖蒲城主佐々木氏綱の家臣黒須平内五郎,同黒須八郎左衛門の屋敷跡、下って江戸期には伊奈備前守忠次の家臣富田吉右衛門の屋敷跡といわれているが祥らかではないです。当館は堀や土塁の一部が残り形を推測出来ます。当時の代表的館の遺構を図(省略)に示しましたので参考に考えて見ましょう。前に、前にお話した辻谷館、蓮田館や江ヶ崎館も同じ構えであったとも考えられます。黒浜館は裏の入江が水堀のなり形が不規則になっていたようですが、井沼館も黒浜館と大変よく似ています。前にお話した大字城の館はどれにもあてはまらないことに気付きます。もっと、いろいろな面から比較してみるとおもしろいですね。ご迷惑でなかったら土塁の様子などについてお聞きするのもよいと思います。

閏戸館を後にして、パルシーまであと一息歩きます。

 資料館を出て、左角が三叉路になっています、そこを直角に交わる道路に入って200mほど行くと県道蓮田行田線にでます。出たところが二本木のバス停になっています。バスは蓮田駅の西口広場に行きます。  歩いて帰る方は、県道を蓮田方面に歩いてきてパールパッケージ工場の反対側の路地を浮張団地の方に進み、丁字路に突き当たったら左にまっすぐ進みますとやがて見沼代用水のへりのヘルシーロードに出られます。そのまま下流に向って歩くと久伊豆橋を過ぎて閏戸地区の西側をとおり青少年ホームの方に行かれます。(バス停から駅まで歩いて5600mあります)

   
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